ことば。ひととワイン。そして風。

この記事は2020年10月1日発行『東京外語会報』No.150に掲載されたものです。

森俊彦(もり としひこ)(外D1968)

新緑の風をたのしんで、高輪の丘の上でフラメンコのイベントを! という話がとつぜんまとまりました。2018年春、桜の咲く高輪の僕のアトリエに遊びにきてくれた外語出身の若い女性4人、宮本洋子さん(外D1991)、宮台智子さん(外M2001)、由佐奈緒子さん(外S1991)、羽二生知美さん(外S2016)と。そのことが外語会のメールマガジンで紹介されました。(※)それがきっかけで、同期のゼミの友人井田秀機さん(外M1967)からの勧めで、僕のことを語ることになりました。

瀬戸内海に面した小さな村で生まれました。高校は加古川東。地方では有名な進学校でしたが、僕は関西弁で言う「あかんたれ」でなにもできませんでした。英語だけ辛うじてできたので、英語だけを勉強しました。学校に通う以上に、神戸の港で会う外国人に、あえて手当たり次第に英語で話しかけました。浪人して、辛うじて外語のドイツ語科に受かった年、観光ガイドの国家試験に受かりました。大学に通わずに、JTBでインバウンドのガイドをしていました。ドイツ語の仕事をふくめて大学時代をアルバイトで過ごしました。1964年、初めて日本人が海外に出かけられるようになりました。1965年にはガイドで稼いだお金で東南アジアを廻りました。インドネシアでは、当時留学していた、下宿のルームメイトであった長篤史君(外In1968)を訪ねました。バンコック、シンガポール、KL、どこの国に行っても日本の学生を見るのが初めてという時代でした。テレビ、新聞のインタビューに出ていました。そして羽田に帰った時には日本テレビに取材されました。そのあくる日のお昼の「婦人ニュース」に「若い世代の見た東南アジア」というタイトルで出演しました。1966年には横浜からシベリア経由でヨーロッパに向かいました。コペンハーゲンのイダ・ダヴィッドセンというレストランで仕事をし留学資金の一部を稼ぎ、ドイツのフライブルクとケルンで大学生活をエンジョイしました。外語ではなんにも勉強してなかった僕がなんとか卒業できたのは、外語のドイツ語の同級生、永井進君、山本昭彦君、牛山紀雄君のノートのおかげだったと思います。本当にありがとう! と、誌面を借りてお礼を言わせてください。

南ドイツのフライブルクでワインに興味をもつようになりました。ワインの仕事をしたいと思って55年経ちました。そして1970年フランスでフランスワインに出会いました。その瞬間にドイツのことをすべて忘れてしまいました。そしてフランス料理を毎日いただければとフランスの文化に憧れるようになりました。

1972年フランスワインとイギリスのオーディオの輸入の目的でodexを設立しました。オーディオは自分が気に入ったリンソンデックLP12とRogers BBC Monitor LS3/5AをLinn JapanとRogers Japanの設立まで続けました。世界的なブランド2社を無名の時代に発掘しました。ワインは、フランスの三ツ星シェフ、ジョルジュ・ブラン、ミッシェル・ゲラールそしてアラン・デュカスのシェフソムリエのジェラール・マルジョンと仲良くなり、彼らのワインを紹介しました。そしてバブルの時期には、ボルドーの1950年代、60年代、70年代の古いワインを日本一在庫していた会社だったと自負しています。1984年のシャトー・ラトゥールはコンテナ一本700ケース輸入していました。フレンチの名門シェ・イノの井上さんに、そのうちの年間100ケースをグラスワインとして買っていただきました。日本のバブルが終わり、中国、ロシア、アメリカと世界的に高くワインが求められるようになり、odexのリストで39,000円だったロマネ・コンティが100万円で売られるようになって、自分のエネルギーを注ぐビジネスではなくなったという結論を出しました。オーディオは、まだ当時無名の20代だったリンプロダクツの創業者Ivorらを発掘し、一緒にブランドを築きあげた時代でした。ワインはボルドーからイタリアへ主力を移しました。次にイタリアも北から南に着眼点を変え、無名のジャンニ・マシャレッリそしてスペインではテルモ・ロドリゲスという天才を発掘し、今に至っています。4番目の輸入国として、オーストリアでは20代のマルクス・フーバーにたどり着きました。ところで日本人は、ワインの情報が欲しい時、英語以外、せいぜいフランス語の情報まででしょう。それ以上は、日本人の書いた本のコピーの情報だけでしか頼れず、そうするとまだ知られていない新しいワインのことを判断することができないのでは、と心配しています。一方で、世界的にも無名だったマルクス・フーバーのワインを、オープンわずかのマンダリンオリエンタル東京ホテルがすぐにハウスワインとして採用し、トレードマークの扇をプリントしたプライベートラベルを作っていただき今日に至ります。そして5番目に輸入しはじめた国はポルトガルです。南青山のジャズクラブ、ブルーノート東京でプライベートラベルを作っていただいています。僕は僕が100歳になったころ、今から23年後、ポルトガルが世界一のクオリティワインの国になっていると信じています。

さて、神のおぼしめしで、もし長生きできて僕が100歳になった時、100カ国食べ歩きが達成できればと夢想しています。今55年間の食べ歩き歴で55カ国達成しました。最後に、僕は40でフランス語を始め、50でイタリア語とスペイン語、60になってアジアの言葉を学び始めました。今11カ国語でワインと食を語れます。5カ国の土地の生産者たちと、現地語で直接取引をしています。ひとつだけの例外は、外語のフランス語科出身の坂口功一さんのパリの会社Société Sakaguchiです。シャサーニュ・モンラッシェのMichel Niellonのワインの輸入を通じて、30年間のお付き合いをさせていただいています。坂口さんありがとうございます。

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