ニーノの回想録「ニーノ・ヴィンテージ」連載第3回『1965年、はじめての海外旅行』

社屋でワインを飲むニーノ

2024年9月

ニーノ(株式会社 オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)

1965年、はじめての海外旅行

私は1965年、東京外国語大学3年生の夏休み、はじめて海外旅行に行きました。行き先は東南アジア諸国で、10日間ほどでした。

しかし、そのころのアジア情勢は、緊迫していました。

同年2月7日、アメリカ軍は、北ベトナムへの爆撃を開始。同年3月8日、アメリカの海兵隊は支援していた南ベトナムのダナンに上陸しました。

ベトナムの統一をめぐる、北ベトナムと南ベトナムの戦争は、東西冷戦を背景に、北を支援するソ連と中国、南を支援するアメリカの代理戦争に発展。この年からアメリカ軍が現地に本格的な戦力を投入し、戦火は拡大していました。

連日報道される、ベトナム戦争の生々しい写真や映像は、世界の人々に衝撃を与えていました。

そんなある日、私は雑誌『朝日ジャーナル』のなかに、パナ通信社が募集する東南アジアツアーの広告に目がとまりました。

ベトナムの緊迫よりも、このツアーに行きたい思いが強く、すぐ申し込みました。

なぜ、行きたかったというと、前年の1964年4月1日から、海外旅行が自由化になったからです。

それまで、海外への渡航は、日本の敗戦からの復興途上の事情で、仕事や留学といった理由がなければ許可されませんでした。

しかし、東京オリンピック開催を半年後に控え、規制が緩和され、観光目的の海外旅行が誰でも楽しめるようになったのです。

ただし、ひとり年1回、持ち出し現金は500ドル(18万円)という制約がついていました。それでも、人々はパスポートの申請に殺到しました。

とはいえ、大卒初任給が約2万円だった当時、東京〜パリ間の片道航空運賃は約25万円で、まだまだ庶民には高嶺の花でした。

私は、大学1年生だった1963年、通訳案内士の国家資格を取得し、日本交通公社(現JTB)で外国人観光客の通訳をするアルバイトを続けていました。

その貯金のやりくりで、東南アジアツアーなら、なんとか手がとどく値段で、大学の夏休みのスケジュールも合い、最初の地、ホンコンへ行きました。

次はタイ。ここからツアーはカンボジアに移りましたが、私はツアーとはなれ、友人に会うために、ひとりでインドネシアへ行き、その後マレーシアに行き、シンガポールで再びツアーと合流し、ベトナムへ行き、フィリピンから日本に帰国しました。

そのころ、まだ海外旅行客は珍しく、帰国すると羽田空港で日本テレビの取材を受け、テレビに映りました。さらに、雑誌『平凡パンチ』から取材を受け、現地の模様を語る談話が掲載されました。

社屋で執筆するニーノ

なかでも、印象深かったのは、戦時下のベトナムでした。訪問したのは、アメリカが支援していた南ベトナム最大の都市、サイゴン。

当時のサイゴンは、まだ北ベトナム軍の攻撃が及ばす、たまに遠くで爆撃音が聞こえる程度でした。それでも、ホテルは警戒から宿泊禁止で、高校の宿舎に泊まりました。

ツアーを主催したパナ通信社は、所属するカメラマンが撮った写真を、報道機関に売ることを生業にしていました。

ベトナム戦争渦中のサイゴンの飲食店は、西側諸国通信社のカメラマンやジャーナリストが情報交換のために集まり、まるで記者クラブのようでした。

私たちパナ通信社のツアーの席にも、いろんな人たちが出入りしていました。そのなかに、日本人カメラマン、沢田教一さんの姿もありました。

沢田さんは当時、私より8歳年上で29歳。アメリカの通信社UPIに所属していました。ベトナム戦争の報道を強化するため7月17日、東京支局からサイゴン支局に赴任したばかりでした。

沢田さんは、私たちのツアーが帰国した直後の9月6日、取材のために、アメリカ海兵隊に同行し、最前線にヘリコプターで降り立ちました。

すると、いきなり、川の対岸の村に隠れていた、敵の南ベトナム開放民族戦線の兵士が銃撃してきました。

アメリカ兵は、対岸の見えない敵を上空から鎮圧するため、空軍にナパーム弾の投下を要請。非戦闘員の市民に避難するようにアナウンスすると、30名ほどの親子が川を渡って逃げてきました。

沢田さんは、このうち2組の母子が、必死で川を渡る姿に向け、二十数回シャッターを切りました。

このうちの一枚が、「安全への逃避」というタイトルで、UPIのネットワークを通じて全世界に配信されました。

緊迫する母子の表情を見た世界中の人々は「ベトナムで何が起きているの?」と関心を示し、1965年の世界報道写真展で大賞を受賞。翌年の1966年にピュリツァー賞を受賞しました。

アメリカ兵や武器が出てこない、ベトナム市民の姿だけで伝えた戦場写真。常に人間を深く見つめ、写真を撮った、沢田さんのまなざしが、世界に認められたのです。

そのころ海外に飛び出した、日本人の勢いを象徴するようでした。

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勢いの話をすれば、今の日本は国内産業が衰退し、韓国や中国のほうが、勢いがあります。しかし、海外旅行が自由化になった当時は、日本人に勢いがありました。

暗い日本への反発から、ものすごくエネルギーがあり、のちに、日本のフレンチレストランや、ファッションデザイナーの草分けになった人たちは、このとき海外に飛び出していました。

沢田さんは、その後、写真の母子全員を難民キャンプで探しあて、再会を果たしました。ピュリツァー賞の賞金の一部を寄付し、一緒に添えた受賞写真の裏に「幸せに サワダ」とサインを入れました。撮影から10ヶ月後のことでした。

戦局がカンボジアに拡大した1970年10月28日、沢田さんは、カンボジアのプノンペン南部に取材に行く途中、銃撃され死亡。享年34歳でした。

こうした、戦場の現実は、アメリカ社会をゆさぶり、変貌させることになります。

膨大な戦費は経済を圧迫し、国内は分裂。既存の体制への抵抗は、さまざまな価値観の崩壊へとつながり、ついにベトナムから撤退を余儀なくされました。

1975年4月30日、サイゴンが陥落し、南ベトナムは崩壊しました。

この後、民族統一を果たしたベトナムと、アメリカが国交を結ぶまでには、20年の歳月が必要になりました。

社屋でワインを飲むニーノ

私は、1965年に参加した東南アジアツアーで、英語が喋れたことから、現地の新聞社やテレビの取材に、ツアーの代表として答えるうちに、いつしかツアーのリーダー的存在になっていました。

また、私は日本人らしく見えなかったのか、どこの国へ行っても、現地の人とすぐなじめました。

私は日本で、師匠もいなくて、友だちも少なく、何をやっても不器用で、グループのリーダーになることはありませんでした。

しかし、海外に行けば、活躍できる場所があることに目覚めたのです。それ以来、海外に行くことが、病みつきになりました。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN   Photo & Text by George Oda