ニーノの回想録「ニーノ・ヴィンテージ」連載第6回『1966年 エピソード3 ニューイヤーの花火』

回想するニーノ(森俊彦)

2025年5月

ニーノ(オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)

ニューイヤーの花火

東京外国語大学の4年生になる1966年、休学届けを出し、約1年、世界を巡る旅に出ました

その後半は、9月から翌年の春まで、ドイツのケルン大学の秋学期に通うことからスタートしました。その間、他国へも数日間の短い旅に出かけました。

クリスマスは、ケルン大学でできたドイツ人の友だちに誘われ、ドイツの西端、ベルギーとの国境の街、アーヘンにある彼の実家で過ごしました。

当時、ベルギーはドイツよりも税金が安く、すぐ近くのベルギーまでタバコを買いに行った憶えがあります。

友人宅のクリスマス・ディナーは質素なものでした。日本では、アメリカ式の派手なクリスマスパーティーが流行し、世界中のどこでも、同じような騒ぎ方をすると思っていたので、意外でした。

ヨーロッパの伝統的はクリスマスの過ごし方は、離れて暮らしていた家族が集まり、母親の家庭料理を囲む。そのありがたさに、キリストの誕生をしみじみ思うことが、尊いことを知りました。

ディナーに同席すると、心があたたまり、印象に残りました。

その後、年末年始の休暇はひとりで、1967年の新年を、フランスのパリで迎えることにしました。

夜行列車でフランスに移動し、12月31日の朝、パリに着きました。

すぐに、レトロな建築が印象的な、中央市場(1969年に移転後、解体)に行きました。

夜勤が明けた大勢の労働者が駅に向かい、通勤してくる労働者と交錯。人間味にあふれた、にぎやかな活気は、まるで映画のワンシーンのようでした。

夜は、大衆レストランで、はじめてオニオン・グラタン・スープを食べました。素朴な定番料理だけれども、すごく美味しくて、驚きました。

とろとろのタマネギは甘く、スープの旨味はしっかりして、まろやかなコクは奥深く、飽きない味わいです。

日本の洋食とちがう、本場フランスの味の魅力を、はっきりと自覚し、長い旅のなかで、最も印象に残る料理になりました。

夜12時になると、新しい年になった瞬間、セーヌ河の上に花火が上がりました。私はその花火を、宿泊先のサンジェルマン地区の路上で見ました。

まわりのフランス人はハグをしたり、歌ったりして、お祭りのように騒いでいたけれど、私はそのなかに入れず、ホテルに帰って寝ました。

今でこそ、ニューイヤーを迎える、西洋式のカウントダウンパーティーには慣れたけれど、はじめて体験したときは、どのように振る舞ってよいのか、わかりませんでした。

右)1966年11月、ドイツのケルン大学の仲間と、カーニバルのパレードを見物するために仮装したニーノ(森俊彦)

やがて、春になり、ケルン大学の秋学期が終わると、3月末の帰国まで、諸国を巡りました。

はじめは、大好きなビートルズの国、イギリス。

ロンドンで一番栄えていたリージェント・ストリートや、カーナビー・ストリートに行きました。

1967年春、ビートルズは過渡期を迎えていました。

前年6月の日本公演や、8月のアメリカ公演を最後に、アイドルグループとしての演奏巡業をやめ、スタジオにこもり、最新技術の多重録音を駆使して、芸術的なロック・サウンドの創作に専念していました。

着こなしも、制服のようなスーツを脱ぎ捨て、各自が思い思いのサイケデリックな服を着て、髭をたくわえ、大胆にイメージチェンジしました。

その活動の第一弾となるシングル盤、A面「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」B面「ペニー・レーン」を、イギリスで2月17日に発売したばかりでした。

このシングル盤をテレビでプロモーションするビデオで、メンバーはすでにイメージチェンジした姿で登場しています。

私がロンドンを訪ねた頃、ビートルズは、6月1日に発売する、ロック史上に輝く名盤アルバム「サージェント・パパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」をスタジオで録音している最中で、表には出てきませんでした。

そのころの大衆文化は、映画やテレビが、白黒からカラーに移行する変換期で、ファッションや音楽のトレンドもかわり、時代の空気をいち早くつかんだビートルズが、流行を牽引していました。

最先端の流行をいち早く見ようと、世界中から若者やマスコミがロンドンに集まり、私もその狂騒で沸き立つストリートで、夢中になってミニスカート姿の女性の写真を撮りました。

回想するニーノ(森俊彦)

ロンドンを出発した私は、スペインに留学していた友人の萩内勝之(おぎうち・かつゆき)さんを訪ねました。

荻内さんは私と同郷で、私も通った兵庫県立加古川東高等学校で知り合った友人です。神戸市外国語大学に進学した後に、スペインに留学。帰国後は、スペインやラテン・アメリカの文学の研究や翻訳などに従事しました。

スペインの古典冒険小説「ドン・キホーテ」の翻訳や、「ドン・キホーテの食卓」などの著書があります。

今でも毎年一度は会う仲です。1967年春は、荻内さんと一緒に、スペインとポルトガルを旅行し、観光地を見てまわりました。

その後はひとりで、最終目的地、アメリカへ渡りました。

はじめは象徴的な場所、ニューヨークのエンパイア・ステートビルを目指して、マンハッタンの高層ビル群を歩きました。

それから、日本でアメリカ人観光客の通訳をするアルバイトで知り合ったお客さまの家を訪ねてまわりました。

また、兵庫県の実家の向かいの家で暮らし、アメリカ人の軍人と結婚して、アメリカで暮らす女性の家も訪ねました。

どの家も、映画やテレビで見ていたイメージ通りで、広い屋敷と庭は、最先端の家電製品に囲まれていました。マンハッタンとともに、アメリカの圧倒的なパワーを感じて帰国しました。

約1年の旅を回想すると、留学というより、休学して海外旅行をしていたようなものでした。

各国を回想すると、ドイツの思い出は、ほとんど残っていません。

大学に入る前は、当時GNP世界2位の経済大国、ドイツに憧れ、将来ドイツ人と交易する仕事に就きたいと思い、東京外国語大学に入学すると、ドイツ語を専攻しました。

しかし、実際にドイツに行くと、ゲルマン民族は真面目で勤勉だけれども、人や街に、明るさは少ないと感じました。

その一方で、イギリスとアメリカで見た、アンクロ・サクソン民族の文化は、パワフルでエネルギッシュ。

イタリアやフランス、スペインなどで見たラテン民族の文化は、陽気で華やか。

やがて、海外の人と仕事をするなら、ゲルマンよりも、アングロ・サクソンや、ラテンのほうが、私に合っている、と思うようになりました。

GNPという、表面的な数値の情報だけでドイツに憧れた自分には、残念な思いをしたけれど、民族や文化という根源と、その相性に気がついたことは、将来の仕事に役立ち、休学して海外旅行をした意義はあったと思います。

特に、イタリアやフランス、スペインの、ワインや食材の生産者さんとは、40〜50年の長い年月にわたり、輸入ビジネスのお付き合いが続き、毎年頻繁に行き来する仲です。

2025年も、ゴールデンウィークを利用して、妻の久美と一緒に、三国の人々を訪ねてきました。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN  Photo & Text by George Oda