ニーノの回想録「ニーノ・ヴィンテージ」連載第7回『1966年 エピソード4 追憶のフォルクスワーゲン』

回想するニーノ(森俊彦)

2025年6月

ニーノ(オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)

追憶のフォルクスワーゲン

私は、車の運転はできなくて、車のことは詳しくありません。

でも、ドイツのフォルクスワーゲンのビートルは、独特の丸い形で、面白いデザインだと思って、昔から見ていました。

今でも街で、たまにワーゲンを見かけることがあります。

すると、1966年の秋を思い出しました。

同年、私は東京外国語大学の4年生を1年間休学して、見聞を広めるために世界中を旅していました。

その主な目的は、ドイツのケルン大学で10月から半年間開かれる秋季講座に通い、ドイツ語の語学力を高めることでした。

私は講座が開講すると、大学の独身寮に入居し、通学をはじめました。

ほどなく、同じ授業を受講していた、アメリカから留学に来ていた、女学生と知り合いました。

彼女の名はネイダ。ドイツ系のアメリカ人。ドイツの知人の家でホームステイしながら、通学していました。

驚いたことに、ネイダさんは、ドイツでフォルクスワーゲンのビートルを購入し、マイカー通学していました。そのリッチな振る舞いに、アメリカの豊かな経済力を感じました。

しかし、ネイダさんは、そんな暮らしを自慢する素振りはなく、私に、気さくに話しかけてくれました。

留学に来ている外国人同士ということで、気が合ったのかもしれません。

やがて、ネイダさんは、通学路の途中にある、私の寮に毎朝立ち寄り、フォルクスワーゲンに乗せ、学校まで送ってくれるようになりました。

翌年の1967年、春になり、秋季学期の終了が近づくと、ネイダさんは、

「学期が終わったら、アメリカに帰国する。ワーゲンは、アメリカでも乗りたいため、ドイツのブレーメンの港から、船便でニューヨークの港に送り、私は、飛行機でニューヨークに移動し、ワーゲンを引き取り、自宅があるミシガン州まで運転する予定です。モリさんもニューヨークで落ち合い、一緒に乗って、ミシガンまでドライブ旅行を楽しまない?」

と誘われました。

アメリカ大陸を車で、ドライブインやモーテルに立ち寄りながら移動する旅は、アメリカの映画やテレビで見知って、憧れていたので、すぐに賛成しました。

ニューヨークからミシガン州までは、およそ500km。東京から京都の少し手前の距離に相当します。当時の自動車の性能と道路事情を考えると、2〜3泊かかる道のりでした。

私は、ネイダさんと旅の計画を練り、楽しみにしていました。

ネイダさんは、ブレーメンの港でワーゲンをニューヨークに輸送する日、私に「ブレーメンで手配を済ませたら、モリさんの寮に行くから、一緒に夕食を食べましょう。何かお料理をつくっておいて」と言われました。

私はその夜、寮で夕食をつくり、ネイダさんが来るのを待っていました。

ドアをノックする音が聞こえ、「来た!」と思い、急いでドアを開けると、見知らぬ若い男性が立っていました。

すると、彼は、

「私は、ネイダさんがホームステイしている家の者です。ネイダさんは今日、ブレーメンに行く途中の高速道路で交通事故にあいました。本人に怪我はないけれど、ワーゲンは自走できない損傷を受けました。事故処理で、今晩モリさんの寮に行けなくなり、伝言を頼む、という連絡があったから来ました」

と告げました。

私は、ネイダさんが無事だったことに安堵しながら、楽しみにしていたアメリカの自動車旅行が白紙になったことを、残念に思いました。

数日後、ネイダさんは事故処理が落ち着くと、私に会いに来て「ワーゲンは使えなくなったけれど、ミシガンで会いましょう。街を案内するわ」と提案され、二人でアポイントを調整した後、ドイツを離れました。

それぞれ別ルートで、10日間ほどヨーロッパ観光を楽しんだ後、アメリカに入りしました。

二人はミシガン州で再会すると、ミシガン大学の学生寮を拠点に、2〜3日間、キャンパス内や市街で、観光や食事を楽しみました。

私の高校は男子校で、東京外国語大学に入学した後も、アルバイトばかりしていたから、女性と交際することはほとんどありませんでした。

とはいえ、ネイダさんは、私にとって初恋の人というわけではなく、結婚を意識したこともなく、今考えると、はじめてのガールフレンドだったと思い、一緒に遊んでくれたことに感謝しています。

私は、ネイダさんとミシガンで別れた後、帰国し、その後もしばらく文通を続けていましたが、就職活動で忙しくなると、途絶えていきました。

就職は、海外と行き来できる商社を志望し、丸紅に採用が決まり、1968年4月から、大手町のオフィスで勤務をはじめました。

しかし、配属されたのは、運輸保険部という、海外出張とは無縁の非営業部門で、落胆しました。

このまま、丸紅にいても理想の仕事ができないと感じ、翌年の1969年11月から、オーディオ機器のメーカー、赤井電機株式会社に転職しました。

1958年、レコードの録音にステレオの技術が導入されると、1960年代初期から一般化します。

1967年、ビートルズが名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の制作で、エンジニアと開発した多重録音の技術が導入されると、レコードの音の表現力は、飛躍的に広がりました。

レコードの音が進化すると、それをいい音で再生するオーディオ機器が、たくさん出てきました。

人々は、まるで目の前で演奏しているようなサウンドの新体験に驚き、自宅に取り入れるニーズが高まり、1970年代にかけて、世界的なオーディオブームが起こりました。

そのころ、赤井が生産していた日本製の高性能のオーディオ機器は、国内外のオーディオ売場で、プレステージブランドとして人気でした。

私は赤井で、ヨーロッパや中東の営業を担当し、2ヶ月に1回、2週間ほどの出張を定期的に続け、レコードプレーヤーやアンプ、スピーカー、テープデッキなどを輸出する商談をしていました。

赤井の製品は、どの国でも、熱狂的に迎えられました。会社の経費で海外に出張し、語学力が生かせ、得意先から歓迎され、ようやく理想の仕事ができるようになった充実感を味わっていました。

そんなある日、私は銀座の街を歩いていました。

当時の銀座は、みゆき族と呼ばれる、アメリカの大学生の着こなしを真似した若者たちで賑わっていました。

すると、その雑踏の中から出てきて、私に会釈をする女性と出会いました。

私は、その女性と面識はないと思っていましたが、丸紅で私の同期だと言われました。彼女は、私の顔を知っていたのでしょう。私は丸紅を退社し、赤井に勤めていることを伝えました。

彼女は、意外と思ったのか、しばらく黙っていたけれど、私はこれも何かの縁と思い、喫茶店に誘いました。

彼女の名は雅枝(まさえ)。そのときから交際をはじめ、1年後の1971年春に、結婚する運びとなりました。

結婚式を目前に控えた早春、赤井の海外出張で、ドイツのフランクフルトの街を歩いていると、私の前を歩いている女性が、後ろ姿でネイダさんとわかりました。

その時私は、赤井の先輩と一緒でしたが、事情を話し、ネイダさんに声をかけ、夕食をする約束をしました。

私は4年ぶりの再会をよろこぶと、奮発して、はじめてシャトーレストランを予約し、ネイダさんと、ひとしきり昔話を楽しみました。

ネイダさんは、大学時代、将来は体育の先生になりたい、と言っていたけれど、結局パンアメリカン航空に入社し、客室乗務員として勤務していました。フランクフルトにいたのも、フライトの関係でした。

やがて、私が「実は、2週間後に結婚することになった」と言うと、ネイダさんは「それはおめでとう!私も3週間後に結婚するの」と言われ、お互い祝福して別れました。

私は結婚すると、妻の許可を得て、ネイダさんと文通を続けていたけれど、お互い子どもができる頃になると、途絶えていきました。

今はどうしているのだろう、と考えていると、人生のなかで、出会いと別れが、いくつもあったことが、思い出されてきました。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN  Photo & Text by George Oda