ニーノの回想録「ニーノ・ヴィンテージ」連載第2回『1963年、はじめての東京暮らし』

社屋で蝶を捕獲するニーノ

2024年8月

ニーノ(オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)

1963年、はじめての東京暮らし

パリでオリンピックが開かれた夏、東京は猛暑でした。

暑さに慣れている私でも、やはり、朝の清々しい空気は心地いいものです。

ほぼ毎朝、妻と6時半からはじまるラジオ体操に出かけています。

場所は、目黒の自然教育園のとなりにある、白金台どんぐり児童遊園です。

そこまで、都営バスで通っています。自宅の最寄りのバス停、グランドプリンスホテル新高輪前から、目黒駅前行きのバスに乗り、白金台5丁目で降りています。

ラジオ体操は、いつも100人ほど集まり、いい人と出会い、パワーをもらっています。

そんなある日、社屋のなかに蝶が迷い込んで来ました。社屋の構造が複雑で、出口がわからなくなったのでしょう。

私は隣の自宅から捕虫網を持ってきて蝶を捕らえ、ガラス戸を開け、放してあげました。飛び去る蝶を見て、ふと1963年を思い出しました。

社屋で蝶を見つけ、捕虫網を持ってくるニーノ

1963年、私は東京外国語大学に入学し、東京暮らしをはじめました。当時のキャンパスは、東京都北区の西ヶ原にありました。

キャンパスに通うための下宿は、大学の学生課に紹介してもらい、志村坂上の教員宅の一室を借りました。

当時、都営地下鉄三田線の志村坂上駅は開業してなく、路面電車を使って通学していました。とはいえ、大学へはほとんど行きませんでした。

とにかく、早く海外に行きたい、という思いがふくらむばかりでした。兵庫県から上京し、首都東京で暮らしはじめた感動はなく、東京見物もほとんどしませんでした。そこで、海外に留学する資金を貯めようと考えました。

大学1年生のとき、得意の語学力を活かし、通訳案内士の国家資格を取得しました。そして、日本交通公社(現JTB)で外国人観光客の通訳をするアルバイトをはじめました。

外国人観光客のほとんどは、アメリカ人でした。当時はまだ航空機を使った団体旅行はなく、客船を使った個人旅行が主流で、定年退職した高齢者の夫婦が多かった。

案内で一番多かったルートは、日比谷の帝国ホテルに宿泊していた観光客を、車で箱根の富士屋ホテルに送り届ける仕事でした。

朝、帝国ホテルを出発します。当時の建物は、現在、愛知県の博物館明治村に移築保存されている、アメリカの建築家の巨匠、フランク・ロイド・ライトが設計を手がけたもので、首都東京の玄関にふさわしい、荘厳なデザインでした。

私はその玄関から、国際ハイヤーの運転手が運転する車の助手席に乗り、後部座席に乗る外国人観光客の通訳をしました。道順は箱根駅伝と、ほとんど同じでした。でも、道路はまだ舗装されていませんでした。

昼食は、鎌倉や茅ヶ崎に寄って食べることが多く、長谷の大仏も定番のスポットでした。

道中の外国人観光客との会話は、東西文化の比較論を述べるような難しいものではなく、日常会話の簡単なものでした。

富士屋ホテルのフロントに外国人観光客を引き継ぐと、私の仕事は終わりでした。その後、ホテルの役員室に案内され、役員と同じ洋食のフルコースが食事として提供されました。時間によっては、客室に宿泊する待遇もありました。

富士屋ホテルは、明治時代に、外国人観光客の避暑地として開発されたクラシックホテルのひとつです。涼しい気候と、手仕事の木工を活かした建築が素晴らしく、自分にとって、居心地がいい場所だと感じました。それから今日まで、度々訪れる、思い出の地になりました。

当時の学生アルバイトの平均的な時給が500円だった時代に、2500円もの高額な時給を稼ぎ、留学用の資金として貯金しました。

社屋のガラス戸を開け、蝶を放つニーノ

しかし、そのような好遇に、大学生のスタートから恵まれていたわけではありませんでした。実は、私が東京外国語大学に入学したのは、一浪した後でした。

高校生3年生の受験は、東京外国語大学に落ち、唯一受かった地元兵庫県の神戸商科大学に入学しました。

それでも、私は海外に行きたい気持ちが強く、神戸商科大学に馴染めず、父に相談し、翌年再度、東京外語大学を受験したい意志を伝えました。

父は私の熱意に折れ、神戸商科大学を退学する手続きをしてくれました。

後年父が私に語った話によると、私が一浪で東京外国語大学に落ちた場合を想定し、神戸商科大学に戻れるように、密かに、退学ではなく、休学の手続きをしていたそうです。

若い頃は、進学や就職の進路に迷うことは、誰しもあると思います。私も遠回りしたけれど、自分がやりたい道にこだわり続けたことが、後々よかったと思います。

置かれたところで咲け、ではなく、咲けるところに動いたのです。

その遠回りを理解してくれた父に、感謝しています。東京でオリンピックが開かれようとしていた時代に、家業の呉服屋を継げとは、言いにくい空気を感じていたのでしょう。

社屋の蝶を放ったとき、そんなことを思い出しました。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN   Photo & Text by George Oda