ニーノの回想録「ニーノ・ヴィンテージ」第8回『1970年 オーデックス創業前夜』

社屋で回想するニーノ(森俊彦)

2025年6月

ニーノ(オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)

オーデックス創業前夜

大阪で万博が開かれています。

まだ、行ってないけど、1970年の大阪万博に行ったことを思い出しました。

当時、婚約していた雅枝(まさえ)も大阪万博に行ったそうで、二人で「太陽の塔が素晴らしい、パビリオンや夜景がきれいだった」など、未来都市のような会場の面白さを語り合いました。

大阪万博が始まった1970年3月、私は丸紅から赤井電機株式会社に転職後、初の海外出張に行きました。

赤井の日本製オーディオ機器を輸出する商談のために、スイスやイタリア、オーストリア、ギリシャ、トルコなどを2週間かけてまわりました。

帰国後、銀座の街を歩いていると、私に会釈をする女性と出会ったことが、雅枝との馴れ初めでした。

そのとき、雅枝は「私は丸紅の社員です。あなたと同期で、あなたのことを社内でお見かけして、存じ上げております」と、自己紹介ました。

私は丸紅から赤井に転職したことを告げましたが、偶然の出会いに縁を感じ、雅枝を喫茶店に誘いました。

1ヶ月後、私は雅枝にプロポーズし、婚約しました。

早い展開かもしれませんが、私は雅枝に、人間的にいいものを感じていました。仕事は、丸紅の役員秘書。実家は東日本橋で呉服屋を営んでいました。

私も丸紅で勤務した経験があり、実家は兵庫県加古川市で呉服屋を営み、共通の境遇が多かった点も後押ししました。

結婚の準備を考え、雅枝を父に紹介しようと思い、二人を神奈川県の油壺湾に誘いました。

石原慎太郎が小説『太陽の季節』(1956年)で描いた、マリンスポーツに興じる若者たちの物語に影響を受けた、太陽族の余波は、1970年もありました。

私も友人10人とお金を出し合い、全長8メートルほどの木製セーリング・クルーザーを購入し、油壺湾のヨットハーバーで所有していました。

友人とクルージングを楽しむ機会に父と雅枝も誘い、紹介しました。

雅枝は私を、実家の東日本橋の呉服屋に誘い、両親に紹介してくれました。

雅枝のお父さんは銀座に繰り出すことが好きで、雅枝と私を連れ、ビアホールのライオンや、洋食屋のスエヒロ、おでん屋のお多幸などによく行きました。

お父さんは銀座の飲食店の常連だったらしく、行く先々で「社長!毎度ありがとうございます」と声をかけられていました。

1年後、1971年4月18日、私は雅枝との結婚式を、私の故郷、兵庫県にある神戸オリエンタルホテルで執り行いました。翌日から、新婚旅行でハワイに行きました。

新郎新婦の新居は、1969年に高輪にできたばかりの9階建てのマンション。今もオーデックス社屋の近くに建つ、コープ高輪の2階、3LDKの部屋でした。

私は大学受験で浪人していた1962年、高輪に住んだ経験があり、閑静な街の雰囲気が気に入ったことや、雅枝の母校、清心女子短期大学(現在は閉校)の大学が近かったことが、新居選びの背景になりました。

1年半後の1972年、雅枝の誕生日の11月21日、オーディオ機器とワインの輸入販売会社として、株式会社オーデックス・ジャパンを創業しました。

社名のodexは、オーディオとエクスポート、インポートをミックスした造語でした。

オーディオのスペルは本来audioですが、国によってはアウディオと発音します。私はオーという発音にこだわったことと、4文字のシンプルな見た目を重視し、odexにしました。

創業時の社屋はコープ高輪の自宅。社員は私と雅枝の二人だけでスタートしました。その時、私は28歳、雅枝は25歳でした。

私は、起業のために約3年間勤めた赤井を退社しました。海外出張ができて、輸出先の国々で歓迎された仕事環境には満足していました。

その一方で、大学生時代の1966年、ドイツ旅行で出会った、本格的な欧州ワインの美味しさの衝撃から、将来日本で広めたい思いがありました。

また、サラリーマンを長く続けるより、早く自分の会社を起業したい思いも強かったことが重なり、赤井を退社しました。

結局、私の生涯で、サラリーマン生活は1968年4月から1972年9月まで。丸紅と赤井でお世話になった、4年半ほどでした。

とはいえ、起業したものの、当時の日本で、欧州ワインがたくさん売れる市場は、ほとんどありませんでした。

そこで、日本より飲食店市場が進んでいた香港を訪ね、どのようなワインが流通しているかリサーチし、フランスとスイスのワインメーカーをピックアップすると、日本への輸入を打診するレターを送りました。

その結果、数社からワインを日本に輸入することができたけれど、思うように売れず、在庫が増えていきました。

ワインだけのビジネスは未知数が多かったため、オーディオブームの渦中にあった日本市場で、赤井で培ったオーディオ・ビジネスの経験を生かすことで、経営の補填にしようと考えていました。

やはり、アメリカから輸入した大型スピーカーは、日本の家電量販店で飛ぶように売れ、秋葉原の本店のみならず、北海道をはじめとする地方都市の支店でもよく売れました。

地方都市の顧客は、漁師が多かったそうです。漁師の家は、隣近所と距離がある一軒家が多く、大きなスピーカーの迫力が、存分に楽しめたのです。

こうした、オーディオ・ビジネスの好調が、創業したばかりの会社を支えました。

1970年9月、大阪万博が閉会すると、国鉄(現JR)は10月から新たな旅行需要を喚起するために、「美しい日本と私」をサブタイトルにした「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンをスタートしました。

美しい日本を再発見しようと呼びかける一方で、その旅にディスカバー・マイセルフ、自分自身も再発見することも含むコンセプトでした。

大阪万博が提示した未來的モダニズムと180度ちがう、原点回帰のコンセプトは、リスクが多い大胆な方向転換でした。

しかし、当時創刊された女性ファッション誌「アンアン」や「ノンノ」を購読する、アンノン族と呼ばれるトレンドリーダーに、個人旅行を訴求する、思い切った作戦が当たり、すぐに新たなブームになりました。

同年放送された富士ゼロックスのCMのコピー「モーレツからビューティフルへ」は、それまでの量を追い求める高度経済成長が頭打ちとなり、質を問う時代へと転換していく気分を象徴し、相乗効果になりました。

1960年代、ファッションやロックで大衆文化を牽引したロンドンは、ビートルズの解散とともに、燃え尽きるように行き詰まると、若者たちは、ジーンズスタイルで愛と平和を訴える、アメリカのウッドストックのコンサート(1969年)へ惹かれていきました。

映画は、無軌道な若者の放浪を描いたアメリカの『イージーライダー』(1969年)に代表される、アメリカン・ニューシネマが人気になりつつありました。

そのうちの1本、オーデックスが創業した1972年に公開された『ゴッドファーザー』は、第二次世界大戦終戦直後のニューヨークを舞台に、闇社会のビジネスを仕切るイタリア移民のマフィア一家の物語。

主人公の青年が、家族と家系、アメリカとイタリアなど、原点回帰を通し、自分自身を見つめ直していく姿を、美しい映像と音楽で描いた作品は、時代の気運と合い、多くの人々の共感を得て、名作として語り継がれています。

たとえば、新婚夫婦が一流企業を辞め、家業を継がず、起業すると言うと、家族から、反対されるケースは少なくないと思います。

でも、私と雅枝は、その道を選びました。

今思うと、私と雅枝は、無意識のうちに原点回帰して、自分自身を見つめ直していたのかもしれません。

私と雅枝の家系は自営業でした。家族は起業に反対することなく、後押ししてくれました。

雅枝の親族も、銀行の融資や取引先の紹介などで、協力してくれました。

オーデックスを創業したとき、何よりうれしかったことは、家族が協力してくれたことです。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN  Photo & Text by George Oda