ニーノの回想録「ニーノ・ヴィンテージ」連載第3回『1965年、はじめての海外旅行』

社屋でワインを飲むニーノ

2024年9月

ニーノ(株式会社 オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)

1965年、はじめての海外旅行

私は1965年、東京外国語大学3年生の夏休み、はじめて海外旅行に行きました。行き先は東南アジア諸国で、10日間ほどでした。

しかし、そのころのアジア情勢は、緊迫していました。

同年2月7日、アメリカ軍は、北ベトナムへの爆撃を開始。同年3月8日、アメリカの海兵隊は支援していた南ベトナムのダナンに上陸しました。

ベトナムの統一をめぐる、北ベトナムと南ベトナムの戦争は、東西冷戦を背景に、北を支援するソ連と中国、南を支援するアメリカの代理戦争に発展。この年からアメリカ軍が現地に本格的な戦力を投入し、戦火は拡大していました。

連日報道される、ベトナム戦争の生々しい写真や映像は、世界の人々に衝撃を与えていました。

そんなある日、私は雑誌『朝日ジャーナル』のなかに、パナ通信社が募集する東南アジアツアーの広告に目がとまりました。

ベトナムの緊迫よりも、このツアーに行きたい思いが強く、すぐ申し込みました。

なぜ、行きたかったというと、前年の1964年4月1日から、海外旅行が自由化になったからです。

それまで、海外への渡航は、日本の敗戦からの復興途上の事情で、仕事や留学といった理由がなければ許可されませんでした。

しかし、東京オリンピック開催を半年後に控え、規制が緩和され、観光目的の海外旅行が誰でも楽しめるようになったのです。

ただし、ひとり年1回、持ち出し現金は500ドル(18万円)という制約がついていました。それでも、人々はパスポートの申請に殺到しました。

とはいえ、大卒初任給が約2万円だった当時、東京〜パリ間の片道航空運賃は約25万円で、まだまだ庶民には高嶺の花でした。

私は、大学1年生だった1963年、通訳案内士の国家資格を取得し、日本交通公社(現JTB)で外国人観光客の通訳をするアルバイトを続けていました。

その貯金のやりくりで、東南アジアツアーなら、なんとか手がとどく値段で、大学の夏休みのスケジュールも合い、最初の地、ホンコンへ行きました。

次はタイ。ここからツアーはカンボジアに移りましたが、私はツアーとはなれ、友人に会うために、ひとりでインドネシアへ行き、その後マレーシアに行き、シンガポールで再びツアーと合流し、ベトナムへ行き、フィリピンから日本に帰国しました。

そのころ、まだ海外旅行客は珍しく、帰国すると羽田空港で日本テレビの取材を受け、テレビに映りました。さらに、雑誌『平凡パンチ』から取材を受け、現地の模様を語る談話が掲載されました。

社屋で執筆するニーノ

なかでも、印象深かったのは、戦時下のベトナムでした。訪問したのは、アメリカが支援していた南ベトナム最大の都市、サイゴン。

当時のサイゴンは、まだ北ベトナム軍の攻撃が及ばす、たまに遠くで爆撃音が聞こえる程度でした。それでも、ホテルは警戒から宿泊禁止で、高校の宿舎に泊まりました。

ツアーを主催したパナ通信社は、所属するカメラマンが撮った写真を、報道機関に売ることを生業にしていました。

ベトナム戦争渦中のサイゴンの飲食店は、西側諸国通信社のカメラマンやジャーナリストが情報交換のために集まり、まるで記者クラブのようでした。

私たちパナ通信社のツアーの席にも、いろんな人たちが出入りしていました。そのなかに、日本人カメラマン、沢田教一さんの姿もありました。

沢田さんは当時、私より8歳年上で29歳。アメリカの通信社UPIに所属していました。ベトナム戦争の報道を強化するため7月17日、東京支局からサイゴン支局に赴任したばかりでした。

沢田さんは、私たちのツアーが帰国した直後の9月6日、取材のために、アメリカ海兵隊に同行し、最前線にヘリコプターで降り立ちました。

すると、いきなり、川の対岸の村に隠れていた、敵の南ベトナム開放民族戦線の兵士が銃撃してきました。

アメリカ兵は、対岸の見えない敵を上空から鎮圧するため、空軍にナパーム弾の投下を要請。非戦闘員の市民に避難するようにアナウンスすると、30名ほどの親子が川を渡って逃げてきました。

沢田さんは、このうち2組の母子が、必死で川を渡る姿に向け、二十数回シャッターを切りました。

このうちの一枚が、「安全への逃避」というタイトルで、UPIのネットワークを通じて全世界に配信されました。

緊迫する母子の表情を見た世界中の人々は「ベトナムで何が起きているの?」と関心を示し、1965年の世界報道写真展で大賞を受賞。翌年の1966年にピュリツァー賞を受賞しました。

アメリカ兵や武器が出てこない、ベトナム市民の姿だけで伝えた戦場写真。常に人間を深く見つめ、写真を撮った、沢田さんのまなざしが、世界に認められたのです。

そのころ海外に飛び出した、日本人の勢いを象徴するようでした。

社屋で執筆するニーノ

勢いの話をすれば、今の日本は国内産業が衰退し、韓国や中国のほうが、勢いがあります。しかし、海外旅行が自由化になった当時は、日本人に勢いがありました。

暗い日本への反発から、ものすごくエネルギーがあり、のちに、日本のフレンチレストランや、ファッションデザイナーの草分けになった人たちは、このとき海外に飛び出していました。

沢田さんは、その後、写真の母子全員を難民キャンプで探しあて、再会を果たしました。ピュリツァー賞の賞金の一部を寄付し、一緒に添えた受賞写真の裏に「幸せに サワダ」とサインを入れました。撮影から10ヶ月後のことでした。

戦局がカンボジアに拡大した1970年10月28日、沢田さんは、カンボジアのプノンペン南部に取材に行く途中、銃撃され死亡。享年34歳でした。

こうした、戦場の現実は、アメリカ社会をゆさぶり、変貌させることになります。

膨大な戦費は経済を圧迫し、国内は分裂。既存の体制への抵抗は、さまざまな価値観の崩壊へとつながり、ついにベトナムから撤退を余儀なくされました。

1975年4月30日、サイゴンが陥落し、南ベトナムは崩壊しました。

この後、民族統一を果たしたベトナムと、アメリカが国交を結ぶまでには、20年の歳月が必要になりました。

社屋でワインを飲むニーノ

私は、1965年に参加した東南アジアツアーで、英語が喋れたことから、現地の新聞社やテレビの取材に、ツアーの代表として答えるうちに、いつしかツアーのリーダー的存在になっていました。

また、私は日本人らしく見えなかったのか、どこの国へ行っても、現地の人とすぐなじめました。

私は日本で、師匠もいなくて、友だちも少なく、何をやっても不器用で、グループのリーダーになることはありませんでした。

しかし、海外に行けば、活躍できる場所があることに目覚めたのです。それ以来、海外に行くことが、病みつきになりました。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN   Photo & Text by George Oda

ニーノの回想録「ニーノ・ヴィンテージ」連載第2回『1963年、はじめての東京暮らし』

社屋で蝶を捕獲するニーノ

2024年8月

ニーノ(オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)

1963年、はじめての東京暮らし

パリでオリンピックが開かれた夏、東京は猛暑でした。

暑さに慣れている私でも、やはり、朝の清々しい空気は心地いいものです。

ほぼ毎朝、妻と6時半からはじまるラジオ体操に出かけています。

場所は、目黒の自然教育園のとなりにある、白金台どんぐり児童遊園です。

そこまで、都営バスで通っています。自宅の最寄りのバス停、グランドプリンスホテル新高輪前から、目黒駅前行きのバスに乗り、白金台5丁目で降りています。

ラジオ体操は、いつも100人ほど集まり、いい人と出会い、パワーをもらっています。

そんなある日、社屋のなかに蝶が迷い込んで来ました。社屋の構造が複雑で、出口がわからなくなったのでしょう。

私は隣の自宅から捕虫網を持ってきて蝶を捕らえ、ガラス戸を開け、放してあげました。飛び去る蝶を見て、ふと1963年を思い出しました。

社屋で蝶を見つけ、捕虫網を持ってくるニーノ

1963年、私は東京外国語大学に入学し、東京暮らしをはじめました。当時のキャンパスは、東京都北区の西ヶ原にありました。

キャンパスに通うための下宿は、大学の学生課に紹介してもらい、志村坂上の教員宅の一室を借りました。

当時、都営地下鉄三田線の志村坂上駅は開業してなく、路面電車を使って通学していました。とはいえ、大学へはほとんど行きませんでした。

とにかく、早く海外に行きたい、という思いがふくらむばかりでした。兵庫県から上京し、首都東京で暮らしはじめた感動はなく、東京見物もほとんどしませんでした。そこで、海外に留学する資金を貯めようと考えました。

大学1年生のとき、得意の語学力を活かし、通訳案内士の国家資格を取得しました。そして、日本交通公社(現JTB)で外国人観光客の通訳をするアルバイトをはじめました。

外国人観光客のほとんどは、アメリカ人でした。当時はまだ航空機を使った団体旅行はなく、客船を使った個人旅行が主流で、定年退職した高齢者の夫婦が多かった。

案内で一番多かったルートは、日比谷の帝国ホテルに宿泊していた観光客を、車で箱根の富士屋ホテルに送り届ける仕事でした。

朝、帝国ホテルを出発します。当時の建物は、現在、愛知県の博物館明治村に移築保存されている、アメリカの建築家の巨匠、フランク・ロイド・ライトが設計を手がけたもので、首都東京の玄関にふさわしい、荘厳なデザインでした。

私はその玄関から、国際ハイヤーの運転手が運転する車の助手席に乗り、後部座席に乗る外国人観光客の通訳をしました。道順は箱根駅伝と、ほとんど同じでした。でも、道路はまだ舗装されていませんでした。

昼食は、鎌倉や茅ヶ崎に寄って食べることが多く、長谷の大仏も定番のスポットでした。

道中の外国人観光客との会話は、東西文化の比較論を述べるような難しいものではなく、日常会話の簡単なものでした。

富士屋ホテルのフロントに外国人観光客を引き継ぐと、私の仕事は終わりでした。その後、ホテルの役員室に案内され、役員と同じ洋食のフルコースが食事として提供されました。時間によっては、客室に宿泊する待遇もありました。

富士屋ホテルは、明治時代に、外国人観光客の避暑地として開発されたクラシックホテルのひとつです。涼しい気候と、手仕事の木工を活かした建築が素晴らしく、自分にとって、居心地がいい場所だと感じました。それから今日まで、度々訪れる、思い出の地になりました。

当時の学生アルバイトの平均的な時給が500円だった時代に、2500円もの高額な時給を稼ぎ、留学用の資金として貯金しました。

社屋のガラス戸を開け、蝶を放つニーノ

しかし、そのような好遇に、大学生のスタートから恵まれていたわけではありませんでした。実は、私が東京外国語大学に入学したのは、一浪した後でした。

高校生3年生の受験は、東京外国語大学に落ち、唯一受かった地元兵庫県の神戸商科大学に入学しました。

それでも、私は海外に行きたい気持ちが強く、神戸商科大学に馴染めず、父に相談し、翌年再度、東京外語大学を受験したい意志を伝えました。

父は私の熱意に折れ、神戸商科大学を退学する手続きをしてくれました。

後年父が私に語った話によると、私が一浪で東京外国語大学に落ちた場合を想定し、神戸商科大学に戻れるように、密かに、退学ではなく、休学の手続きをしていたそうです。

若い頃は、進学や就職の進路に迷うことは、誰しもあると思います。私も遠回りしたけれど、自分がやりたい道にこだわり続けたことが、後々よかったと思います。

置かれたところで咲け、ではなく、咲けるところに動いたのです。

その遠回りを理解してくれた父に、感謝しています。東京でオリンピックが開かれようとしていた時代に、家業の呉服屋を継げとは、言いにくい空気を感じていたのでしょう。

社屋の蝶を放ったとき、そんなことを思い出しました。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN   Photo & Text by George Oda

イベントレポート:「フードトラック・ハガリ」ランチ会 2024年8月3日(土)

イベント後のスタッフ慰労会で赤ワインを飲むニーノ(代表取締役 森俊彦)

出会いと再会

1.イベントの内容

オーデックス・ジャパンの敷地で営業する「フードトラック・ハガリ」

猛暑日と、パリ五輪のニュースが続く8月3日(土)、恒例の「フードトラック・ハガリ」ランチ会を開催しました。イベントの模様をお伝えします。

◆イベントの魅力

オーデックス・ジャパンの敷地に、本格イタリアンのお料理を販売する「フードトラック・ハガリ」をお招きするイベントです。

11時から16時のお昼の時間帯に、社屋のなかで、各自が購入したお料理にグラスワインを合わせたイートインや、テイクアウトのサービスがお楽しみいただけます。

社屋は丘の上の住宅地にあり、車の往来は少なく静かで、まわりに高層ビルはなく、空が広く、開放感があります。

歴史的建造物の社屋は、モダンでありながら木材を多用し、アートと懐かしさを感じる飽きない居心地です。

東京なのに、まるで高原の美術館やペンションに来たような雰囲気です。

お友だちとの会食に、ぜひご利用ください。

日がわりメインディッシュ「骨付き鶏モモ肉のメキシカーナ」

◆フードトラック・ハガリとは

「フードトラック・ハガリ」は、数々のレストランでシェフを歴任し、青山のイタリアン・レストラン「チンクエ・メッゾ」のオーナシェフを務める葉狩洋(はがり・ひろし)さんがプロデュースするフードビジネスのひとつです。

葉狩洋さんは、青山のレストランを経営しながら、フードロスを最小限にする取り組みから、夫人が販売する高輪のテイクアウト専門店「パネッテリア・ハガリ」と、娘の澪蘭(みらん)さんが販売する「フードトラック・ハガリ」で食材を共有しています。

毎朝、葉狩洋さんが仕込む料理を、夫人と娘が手分けして販売するファミリー・ビジネスです。

一流イタリアン・レストランの食材を共有するため、フードトラックで販売する料理も、本格的なイタリアンに特化しています。

「フードトラック・ハガリ」のインスタグラム→https://www.instagram.com/arrostteriahagari2022/?hl=ja

前菜の日がわりメニュー「タコとオリーブ、ミョウガ、小葱のマリネ」

◆今回の「フードトラック・ハガリ」のメニュー

【前菜の日がわりメニュー】

《野菜料理》

・カブのタプナート(アンチョビ、オリーブ、ニンニク)ソース和え

《魚料理》

・タコとオリーブ、ミョウガ、小葱のマリネ

・海老とトマト、ズッキーニのバジル風味マリネ

・マンボウの腸とアスパラ、ヤングコーンのバッサーノソース和え

・湯引きハモと、焼きナスのフレッシュトマトマリネ

・アジとゴーヤのドライトマト&ケッパーマリネ

《肉料理》

・ローストビーフの赤ワインビネガーマリネ

定番のライスコロッケ「アランチーニ」の盛り付け例

【パスタ&リゾット】

日がわりグラタン:小柱と緑野菜のフジッリグラタン

定番のライスコロッケ「アランチーニ」(中味は黒トリュフリゾットとモッツアレッラチーズ入り・トマトソース添え)

「アランチーニ」の断面。リゾット米の間に黒トリュフとモッツアレッラチーズが見える

【メインディッシュ】

《日がわりメニュー》

・豚バラ肉の赤ワイン煮込み

・骨付き鶏モモ肉のメキシカーナ

・美桜鶏のローストチキン

《定番メニュー》

・トリッパ(和牛ハチノスと白インゲン豆のトマト煮込み)

【自家製フォカッチャ】

定番のプレーンと、日がわりのタマネギ入り

【自家製ドルチェ】

《定番メニュー》

・チーズケーキ

・カスタードプリン

・ティラミス

・パンナコッタ

2.お客さまの笑顔

イベントに参加され、掲載の許諾をいただいたお客さまを紹介するコーナーです。

建築好き

【金融業 高橋優(たかはし・まさる)さん】

ニーノ(森俊彦)から社屋の説明を受ける高橋優さん(左)

高橋優さんは、オーデックス・ジャパンの社屋がある高輪の近所にお住まいです。そんな縁で、以前からワインを購入したり、フードトラック・ハガリで惣菜をテイクアウトしていました。

「フードトラック・ハガリ」ランチ会イベントでは、イートインのサービスもあることを知り、今回はじめて夫人と娘を連れて参加したそうです。

高橋優さんは、会食後、社屋を見学。建築に興味があり、社屋のデザインが「江戸東京建物園」や大阪の「万博記念公園」で観た建築家、前川國男(1905〜1986)の作風に似ていると語りました。

すると、ニーノ(森俊彦)は、この社屋をデザインした建築家、鈴木恂(すずき・まこと 1935〜)は、前川國男の弟子であること。さらに、前川國男は、フランスの著名な建築家、ル・コルビュジエの弟子であることを解説しました。

高橋優さんは、作風の系列を知ることで、社屋の興味が増し、持参した一眼レフカメラで撮影しました。

夫人は、高輪の商業施設は減っているため、ワインの小売や、このようなイベントを続けてほしいと語り、ワインを1ダースご注文いただきました。

鬼が笑う

【画家、弓指貴弘(ゆみさし・たかひろ)さんとワインバー「泥棒日記」女将、木村未穂(きむら・みほ)さんのグループ】

ニーノ(森俊彦)から社屋の説明を受ける弓指貴弘さん(中)と木村未穂さん(左)
イベントで会食する弓指貴弘さん(左)と木村未穂さん(右)
社屋に展示してある弓指貴弘さんの絵画2点

オーデックス・ジャパンの社内に展示してある、かわいい鬼の絵画2点は、画家、弓指貴弘さんが描いた作品です。

この絵画が、社内にある背景は、今年1月にさかのぼります。ある日、ニーノ(森俊彦)は、ポストに入っていたチラシのなかで、近所のマンション「島津山ペアシティ(品川区北品川6-2-10)」の2階にあるアートギャラリー「gellery 201」のチラシに目がとまりました。

それは、弓指貴弘さんの展覧会を告知する内容でした。ニーノは弓指さんのことは知りませんでしたが、告知の絵画を一目見て興味がわき、すぐギャラリーに行き、弓指さんに会い、作品を購入しました。

子どもと犬を描いた作品を購入した理由は、ニーノが近所の子どもと、妻が飼っている犬と仲良くなりたいと思っていたからだそうです。

かわいいものにも、鬼の一面があり、鬼にもかわいい一面がある。いろんな見方ができるモダンアートです。ニーノは絵画を目線より下に飾って見ることが好きなため、床に置いて楽しむことが多いそうです。

【画家、弓指貴弘(ゆみさし・たかひろ)さん】

イベントで会食する弓指貴弘さん

弓指貴弘さんは1993年福岡県生まれ。九州産業大学芸術学部卒。2018年に上京してからアクリルによる絵画制作を開始。2023年から千葉県船橋市にアトリエ兼自宅を構え、フクロウと一緒に暮らしています。

ある夜、船橋のある店で飲んでいたところ、船橋のワインバー「泥棒日記」を閉店してから飲みに来ていた女将、木村未穂さんと出会いました。

ワインつながりでニーノ(森俊彦)を紹介しようと思い、イベントの機会に連れ立って来社されたそうです。

弓指貴弘さんのインスタグラム→https://www.instagram.com/yumisashi.t.t/?hl=ja

弓指貴弘さんの個展のビジュアル

また、オーデックス・ジャパンの施設内で、10月12日(土)から10月14日(月)まで、弓指貴弘さんの絵画を展示する個展を開催します。

個展の詳細は、情報を順次アップデートして、ホームページやSNSで追加告知する予定ですので、よろしくお願いします。

【ワインバー「泥棒日記」女将、木村未穂さん】

イベントで会食する木村未穂さん

木村未穂さんは、2022年から実家のある千葉県船橋市でワインバー「泥棒日記」を開店しました。24席のバーをほとんどひとりで切り盛りしています。

「泥棒日記」の屋号は、亡くなった親友のアパレルブランドから引用したそうです。活動のコンセプトは和と洋の融合。ワインは日本製を推し、ワインバーだけれど和服を着て接客しています。

幼いころから、裁縫などを通じてものづくりに興味を持ち、いまは、お店の料理の調理や、ワイナリーを訪ねることを楽しみにしています。

木村未穂さんは、「フードトラック・ハガリ」の葉狩澪欄さんの父、葉狩洋さんが南麻布のイタリアンレストラン「アッピア」でシェフをしていたとき、同店でホール係として勤務していた経歴があり、葉狩一家とは旧知の仲だそうです。

葉狩澪欄さんとの再会も、イベント来訪の楽しみだったと語り、ワインを1ダースご注文いただきました。

ワインバー「泥棒日記」のインスタグラム→https://www.instagram.com/dorobou_nikki/?hl=ja

弓指貴弘さんの作品を持って記念撮影する作家本人(左)木村未穂さん(中)葉狩澪蘭さん(右)

3.孫とたわむれる

イベント終了後、孫とたわむれる森久美
イベント終了後、森久美の孫とたわむれる葉狩澪蘭さん
イベント終了後、森久美の孫とたわむれる葉狩澪蘭さん

当日は森久美の息子の夫人と、孫2人がイベントに参加しました。

イベント開催時間中は、社屋隣の森夫妻自宅でくつろぎ、夕方から社屋に移り、森夫妻やスタッフとの交流を楽しみました。

4.まとめ

イベント終了後、会場のかたずけのために2階からおりてくるニーノ(森俊彦)

猛暑のなか、イベントに参加されたお客さま、誠にありがとうございました。

ニーノ(森俊彦)のポリシーは、ワインをむずかしく語らない。まず、飲んでみて、美味しいかどうか。もちろん、人によって、味の好みはちがいます。

建築や、絵画など、視覚に訴えるアートも同じです。第一印象で気にいるかどうか。能書きから入るものではありません。

ニーノが直感で選んだ絵画から人の交流が広がり、ワインにつながり、出会いと再会に発展する面白さを感じたイベントでした。

イベント終了後、会場の植木の手入れをするスタッフの力(りき)さん
イベント終了後、スタッフ慰労会で赤ワインを飲む力(りき)さん

5.次回予告

社屋のイートイン・スペースの一部

次回の「フードトラック・ハガリ」ランチ会は、

9月7日(土)11時から16時まで開催します。

社屋でイートインをご希望のお客さまは、お席の確保の都合で、あらかじめご予約ください。

なお、8月17日(土)はお盆休みをいただくため、ランチ会はお休みさせていただきます。

また、9月はオーデックス・ジャパンのイタリアツアーなどの関係で、ランチ会は9月7日(土)のみの開催となります。

あらかじめご了承ください。

10月のランチ会は、10月5日(土)、12日(土)、19日(土)の3回開催する予定です。

10月12日(土)は、前述の弓指貴弘さんの個展と同時開催になります。

引き続き、よろしくお願いします。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN  Photo & Text by George Oda

イベントレポート:「フードトラック・ハガリ」ランチ会 2024年7月20日(土)

お客さまを見送るオーデックス・ジャパン代表取締役・森俊彦と久美夫妻、愛犬レモン

夏休みのにぎわい

1.イベントの内容

「フードトラック・ハガリ」の運転、調理、販売を担当する葉狩澪蘭(はがり・みらん)さん

関東甲信越地方の梅雨が明け、学校の夏休みがはじまった週末の7月20日(土)、恒例の「フードトラック・ハガリ」ランチ会を開催しました。イベントの模様をお伝えします。

◆イベントの魅力

オーデックス・ジャパンの敷地に、本格イタリアンのお料理を販売する「フードトラック・ハガリ」をお招きするイベントです。

11時から16時のお昼の時間帯に、社屋のなかで、各自が購入したお料理にグラスワインを合わせたイートインや、テイクアウトのサービスがお楽しみいただけます。

社屋は丘の上の住宅地にあり、車の往来は少なく静かで、まわりに高層ビルはなく、空が広く、開放感があります。

歴史的建造物の社屋は、モダンでありながら木材を多用し、アートと懐かしさを感じる飽きない居心地です。

なおかつ、本格イタリアンと、ワイン輸入業社がおすすめする美味しいワインが楽しめ、心身がリラックスする会です。

東京なのに、まるで高原の美術館やペンションに来たような雰囲気です。

お客さまのグループは、半個室に分けてご案内します。お客さま同士の交流にも程よい距離感です。

お友だちとの会食に、ぜひご利用ください。

◆フードトラック・ハガリとは

「フードトラック・ハガリ」は、数々のレストランでシェフを歴任し、青山のイタリアン・レストラン「チンクエ・メッゾ」のオーナシェフを務める葉狩洋(はがり・ひろし)さんがプロデュースするフードビジネスのひとつです。

「フードトラック・ハガリ」の看板に掲示されている葉狩洋さんのプロフィール

葉狩洋さんは、青山のレストランを経営しながら、フードロスを最小限にする取り組みから、夫人が販売する高輪のテイクアウト専門店「パネッテリア・ハガリ」と、娘の澪蘭(みらん)さんが販売する「フードトラック・ハガリ」で食材を共有しています。

毎朝、葉狩洋さんが仕込む料理を、夫人と娘が手分けして販売するファミリー・ビジネスです。

一流イタリアン・レストランの食材を共有するため、フードトラックで販売する料理も、本格的なイタリアンに特化しています。

◆今回の「フードトラック・ハガリ」のメニュー

【前菜の日がわりメニュー】

《魚料理》

・アナゴとキュウリのホワイトバルサミコ和え

・タコとオリーブ、ミョウガ、小葱のマリネ

・活つぶ貝のプーリア風サラダ

・海老とプチトマト、オクラ、インゲンのディルマヨネーズ和え

《肉料理》

・鶏胸肉とトウモロコシ、赤タマネギのパルメザン和え

・豚ホホ肉のローストとマッシュルームのグレイビーサラダ

・豚タンのボリートねぎライムまみれ

・和牛レバー低温ローストとマコモダケのガーリックグレイビー風味

前菜の豚ホホ肉のローストとマッシュルームのグレイビーサラダ

【パスタ&リゾット】

日がわりグラタン:小柱と緑野菜のフジッリグラタン

定番のライスコロッケ「アランチーニ」(中味は黒トリュフリゾットとモッツアレッラチーズ入り・トマトソース添え)

定番のライスコロッケ「アランチーニ」の盛り付け例

【メインディッシュ】

《日がわりメニュー》

・アワビのパエリア風ライス

・美桜鶏のローストチキン

・豚バラ肉のバルサミコ煮込み

《定番メニュー》

・トリッパ(和牛ハチノスと白インゲン豆のトマト煮込み)

【自家製フォカッチャ】

定番のプレーンと、日がわりのオリーブ入り、タマネギ入り

【自家製ドルチェ】

《日がわりメニュー》

・チョコレートテリーヌ

・もものコンポートまるごとゼリー

・プラムのレアチーズケーキ

《定番メニュー》

・チーズケーキ

・カスタードプリン

・ティラミス

・パンナコッタ

自家製フォカッチャ。左からオリーブ入り、タマネギ入り、プレーン

2.お客さまの笑顔

雑誌『イタリア好き』編集長、松本浩明さん(左)陶磁器工房「ラ・チェラミカ」代表、池田由美子さん(左から2人目)とお仲間

イベントに参加され、掲載の許諾をいただいたお客さまを紹介します。

【雑誌『イタリア好き』と「ラ・チェラミカ」のグループ】

ニーノ(森俊彦)の好きな雑誌『イタリア好き』の編集長、松本浩明さんが参加されました。

同誌に連載記事を寄稿している、陶磁器工房「ラ・チェラミカ」の代表、池田由美子さんのグループと合流し、会食を楽しまれました。

いずれも、このイベントを何度かご利用いただいている方々です。

オーデックス・ジャパンに置いてある雑誌『イタリア好き』
ニーノ(森俊彦)が気に入って購入し、オーデックス・ジャパンの玄関に飾ってある「ラ・チェラミカ」の作品。イタリアの州を描いたタイルを組み合わせている
フードトラックで惣菜を注文する建築家の内木博喜(ないき・ひろき)さん

【建築家 内木博喜さん】

内記博喜(ないき・ひろき)さんは、オーデックス・ジャパンの建物の設計をした建築家、鈴木恂(すずき・まこと)さんが創立した建築デザイン会社、株式会社エーエムエスの現在の代表取締役です。

このほか、早稲田大学芸術学校で講師を務め、建築雑誌に寄稿が多数あります。

当日はお一人さまで参加。会社が手がけた建物の健康チェックを兼ねてこのイベントに参加され、人の動きと建物の関係を観察するそうです。

高輪のジム「Wellness Factory TOKYO」のトレーナー、田中伸宏さまと夫人

【トレーナー 田中伸宏さま】

高輪で森夫妻のパーソナルトレーニングを担当しているトレーナーさんです。現在は姿勢正しく歩くトレーニングの段階だそうです。

ニーノ(森俊彦)と語るドン(岩谷英昭)さん

【ドン(岩谷英昭)さん】

ニーノ(森俊彦)が「ドンさん」と呼ぶ岩谷英昭さんです。

プロフィールは、1968年、明治学院大学経済学部卒業。同年、松下電器産業入社。米国松下電器CEO、同会長兼松下電気取締役を経て、2006年、明治学院大学客員教授。現在、明治学院大学学長特別補佐、東北財経大学(中国)客員教授、ピーター・ドラッカー研究所特別顧問

このほか、経済書の著書が多数あり。後進の指導にあたる私塾も開いています。

ドンさんは、ニーノのひとつ年下で今年79歳。ニーノと同じ世代で仲が良く、森夫妻と一緒に旅行に出かけることが多いそうです。

ニーノ(森俊彦)が所有するドン(岩谷英昭)さんの著書『松下幸之助は生きている』

3.サプライズ・バースデー・ケーキ

ドン(岩谷英昭)さんの塾生、奥住達生さんファミリーと、森夫妻が「パネッテリア・ハガリ」に特注して、ドンさんに贈ったサプライズ・バースデー・ケーキ
ドン(岩谷英昭)さんの塾生、奥住達生さんファミリーと、森夫妻が「パネッテリア・ハガリ」に特注して、ドンさんに贈ったサプライズ・バースデー・ケーキ

当日は、ドン(岩谷英昭)さんの誕生日が近いことから、ドンさんの熟生、奥住達生さんファミリーと、森夫妻は、事前に「パネッテリア・ハガリ」にサプライズ・バースデー・ケーキを特注しました。

ケーキは葉狩洋シェフが自ら手がけ、ドンさんの名前も入る渾身の作です。

プレゼントの瞬間は、会場のお客さまがひとつになって盛り上がりました。

お父さんがつくったサプライズ・バースデー・ケーキをドン(岩谷英昭)さんに運ぶ葉狩澪蘭さん
サプライズ・バースデー・ケーキを見て喜ぶドン(岩谷英昭)さん
2階席にいた『イタリア好き』「ラ・チェラミカ」グループも身を乗り出して1階のドン(岩谷英昭)さんにお祝いの拍手を送る
ロウソクの火を吹き消したドン(岩谷英昭)さん
ケーキを囲む内木博喜さん、ドン(岩谷英昭)さん、ドンさの熟生、奥住達生さんファミリー
ケーキを囲むドン(岩谷英昭)さん、ドンさんの熟生、奥住達生さんファミリー
切り分け、振る舞われたサプライズ・バースデー・ケーキ

4.走る子どもたち

社屋にあるピアノを弾く子ども

ランチもケーキも食べた子どもたちは、ワインを飲みながら談話を続ける大人たちに付き合いきれません。じっとしていられず、ピアノを弾いたり、部屋中を走りまわったり、騒がしくなってきました。

そこで、葉狩澪蘭さんが子どもたちを庭に連れ出し、一緒に走りはじめました。

庭はウッドデッキが長く続いています。裸足で走るには、絶好の環境です。シンプルで障害物が少なく、開放感ある構造が、走りたい気持ちをさらに高め、ドッグランならぬ、キッズランになりました。

子どもたちは、一緒に遊んでくれた葉狩澪蘭さんにお礼状を書いて渡しました。

子どもを庭に連れ出して遊ぶ葉狩澪蘭さん
庭に設置されたウッドデッキ
ウッドデッキを裸足で走る子ども
イベントで使用したメインの建物とウッドデッキでつながる隣のグラスハウス
子どもたちが興味を示した謎の貯水設備
葉狩澪蘭さんがもらった子どものお礼状
お礼状をもらって喜ぶ葉狩澪蘭さん

5.まとめ

夕食用にライスコロッケ「アランチーニ」買って帰るドン(岩谷英昭)さん

猛暑のなか、イベントに参加されたお客さま、誠にありがとうございました。

今回は、学校が夏休みで、お子さま連れが多く、にぎやかな会になりました。

また、港区にお住まいの常連さまだけなく、神奈川県や茨城県、千葉県から参加されたお客さまもいました。

日帰り旅行気分をお楽しみいただけたら幸いです。

お客さまを見送る森夫妻
スタッフの慰労会で赤ワインを飲む、フードサービスと草むしりを担当した力(りき)さん

6.次回予告

「フードトラック・ハガリ」

次回の「フードトラック・ハガリ」ランチ会は、

8月3日(土)11時から16時まで開催します。

社屋でイートインをご希望のお客さまは、お席の確保の都合で、あらかじめご予約ください。

なお、8月17日(土)はお盆休みをいただくため、ランチ会はお休みさせていただきます。

あらかじめご了承ください。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

Supervised by ODEX JAPAN  Photo & Text by George Oda

ニーノの回想録「ニーノ・ヴィンテージ」連載第1回『1944年、呉服屋に生まれて』

オーデックス・ジャパン社屋で自転車を見るニーノ

2024年7月

ニーノ(オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)

1944年、呉服屋に生まれて

私は1944(昭和19)年1月14日金曜日、兵庫県加古川市で生まれました。父は呉服屋を営み、私はその長男で、着物に囲まれて育ちました。

先祖は武士の家系でした。豊臣秀吉に滅ぼされ、落武者になると、呉服屋を営むようになったそうです。

父はもともと神戸製鋼で働いていましたが、父の兄がビルマで戦死したため退社し、おじいさんの呉服屋を継ぎました。

父は販売の仕事のみでなく、着物の意匠を考案し、機屋さんに生地織を依頼し、オリジナルの着物をつくっていました。いわば、テキスタイル・デザイナーも兼ねていたのです。

父は呉服屋を私に継がせようと考えていましたが、私は海外の仕事に興味があり、継ぎませんでした。母も私の進路を応援してくれました。

私は呉服屋を継がなかったけれど、五感に訴える仕事を続けてきたのは、鮮やかな色と、絹ずれの音のなかで着物をつくる、父の姿を見て育った影響だと思います。

1944年は、第二次世界大戦末期で、日本軍の戦局は悪化する一方で、本土を守る最終手段として、神風特攻隊が出撃しました。

翌年、アメリカ軍が本土に飛来し、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下が続き、降伏しました。

このため、1944年に生まれたというと、多くの方々から「一家は空襲で焼け出され、疎開し、物資がなく、さぞ苦労されたでしょう」といわれます。

当時の生家の敷地は広く、蔵もあり、庭に防空壕もありました。幸い空襲の被害はなく、物資は豊富にありました。苦労した方々には申し訳ないけれど、私の家は、それほど苦労していませんでした。

そんな背景から、父は私が通う学校のPTAの会長を務めていました。でも、私は学校で、うらやみから、仲間外れにされ、よくいじめられました。

いま、多様性の時代といわれますが、私は子どもの頃から、髪型や服装は自由であるべきだと考えていました。

当時の学童の髪型がほとんど坊主刈りでも、私だけ普通の髪型をしていました。このような発想も、いじめられる要因でした。

中学生の頃、東京でオリンピックが開かれることが決まりました。ニュースは連日、建築ラッシュや、国際化が加速すると報道していました。

しかし、加古川は報道とちがい、まるで別の国のように静かで、旧態然としたままでした。

その頃、海外の仕事に興味を持ったのは、オリンピックで海外に憧れたわけではありません。「日本から逃げ出したい」という気持ちの方が強かったからです。

やがて、成人してから、海外の商品を輸入する仕事を生業にして、半世紀以上続けてきました。

その発端は、いじめられっ子だったからです。私はいじめられ、悔しかったけれど、仲間外れにされないために、自分の考えを曲げようとはしませんでした。

無意識のうちに集団心理に流され、長い物に巻かれることに、不安を感じるようになったからです。

おかげで、自分の価値観でものごとを見極め、行動する習慣が身につきました。

(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)

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