2024年9月
ニーノ(株式会社 オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)
1966年 エピソード1 休学とビートルズ
日本ではじめて、南海トラフ地震臨時情報が発表された8月のはじめ、すぐに夫婦でメキシコに旅立ちました。
地震から避難したのではなく、以前から計画していた夏休みの旅行でした。
メキシコのオアハカ州に住む、日本人イラストレーター、フカザワ・テツヤさんを訪ねるためです。
フカザワ・テツヤさんとの出あいは、今年の春でした。
家の近所を散歩していると、北品川の画廊「gallery 201」の前で、フカザワ・テツヤさんの個展を告知する看板の絵に目がとまりました。
フカザワ・テツヤさんのことは知らなかったけれど、絵に惹かれ、なかに入り、絵を買わせていただきました。
ちょうど、帰国していたフカザワ・テツヤさんが在廊して、お話すると、メキシコのオアハカ州に住んでいることを知りました。オアハカは私も訪ねたことがあり、好きな街です。お互いビートルズが好きなこともわかりました。
意気投合して、夏休みに夫婦でオアハカを訪ねることや、冬にオーデックス・ジャパンの施設で個展を開くことが、すぐに決まりました。
夏休みになり、オアハカに行き、フカザワ・テツヤさん夫婦と食事をしながら、絵のことや、ビートルズのことを考えていると、ふと、1966年のことを思い出しました。
1966年は、ビートルズが来日した年です。武道館で公演を行い、その年を代表するニュースとして、昭和史に刻まれました。
外国人タレントの来日公演だけなら、それほど大きなニュースにはなりません。
実は、その公演をめぐり、警視庁の発表によると、日本全国で6520名もの若者が補導されたからです。
ビートルズは前年、娯楽に貢献したことで、英国王室から勲章を受賞し、すでに世界的な人気がありました。
日本公演も人気で、チケットは葉書の応募による抽選になりました。しかし、当選する確率はわずか4%でした。
チケットが入手できない大勢の若者たちは、あきらめきれず、武道館のまわりにいれば、ビートルズの姿が一目見られると思い、家出して武道館を目指し、その途中で次々と補導されたのです。
こうした状況を見て、右翼団体は、ビートルズは、日本の青少年を不良化するグループとして、街頭で公演の反対運動を起こしました。
警視庁は混乱を避けるために、武道館やホテルのまわりを2000人もの警官で厳重に警備し、戒厳令下のようになりました。
過剰な警備は、今後起こると想定された、若者の大規模な騒乱を鎮圧するための予行演習という噂も流れました。
ビートルズの滞在は6月29日から7月3日までの5日間。ホテルからの外出は、武道館公演の往復のみ。私用外出は禁止になり、関係者との歓迎会もすべてキャンセルになりました。
なぜ、このような狂騒に発展したのでしょうか。
当時の日本経済は、高度成長を成し遂げながら、庶民の暮らしは、決して豊かではありませんでした。安保問題やベトナム戦争など、政治不安もあり、デモやストライキなどの社会運動が頻繁に起きていました。
若者はビートルズに、音楽だけでなく、暗い世相を払拭する明るさを見出し、すがるような思いで殺到したのでしょう。
私も同じ気持ちでした。当時の日本人の人生は暗く、抑圧を感じていました。歌謡曲も暗い歌が多かった。
そんな世の中に反発する、ビートルズというサブカルチャーに、大いに共感しました。
でも、武道館に行きませんでした。なぜなら、私は6月6日から、ヨーロッパへ旅立ち、日本にいなかったからです。
東京外国語大学に在学中、3年生の過程が終わると、海外の見聞を広めるために、1966年4月、4年生の春から1年間休学していました。
ビートルズがいた東京に、自分がいなかった無念と、暗い日本から抜け出した喜びが交じり、複雑な気持ちでした。行動の背景に、世の中の動きが影響することを感じました。
いまは、自分のリラックス度も、行動に影響すると感じています。心がおだやかだと、美しいものが目につき、料理やワインも美味しく感じます。
その一方で、落ち着かず、イライラしていると、何をやってもうまくいかない。
気に入った絵との出合いや、新しい人と交流がはじまるときは、たいてい、心がおだやかなときです。
(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)
Supervised by ODEX JAPAN Photo & Text by George Oda