2024年7月
ニーノ(オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)
1944年、呉服屋に生まれて
私は1944(昭和19)年1月14日金曜日、兵庫県加古川市で生まれました。父は呉服屋を営み、私はその長男で、着物に囲まれて育ちました。
先祖は武士の家系でした。豊臣秀吉に滅ぼされ、落武者になると、呉服屋を営むようになったそうです。
父はもともと神戸製鋼で働いていましたが、父の兄がビルマで戦死したため退社し、おじいさんの呉服屋を継ぎました。
父は販売の仕事のみでなく、着物の意匠を考案し、機屋さんに生地織を依頼し、オリジナルの着物をつくっていました。いわば、テキスタイル・デザイナーも兼ねていたのです。
父は呉服屋を私に継がせようと考えていましたが、私は海外の仕事に興味があり、継ぎませんでした。母も私の進路を応援してくれました。
私は呉服屋を継がなかったけれど、五感に訴える仕事を続けてきたのは、鮮やかな色と、絹ずれの音のなかで着物をつくる、父の姿を見て育った影響だと思います。
1944年は、第二次世界大戦末期で、日本軍の戦局は悪化する一方で、本土を守る最終手段として、神風特攻隊が出撃しました。
翌年、アメリカ軍が本土に飛来し、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下が続き、降伏しました。
このため、1944年に生まれたというと、多くの方々から「一家は空襲で焼け出され、疎開し、物資がなく、さぞ苦労されたでしょう」といわれます。
当時の生家の敷地は広く、蔵もあり、庭に防空壕もありました。幸い空襲の被害はなく、物資は豊富にありました。苦労した方々には申し訳ないけれど、私の家は、それほど苦労していませんでした。
そんな背景から、父は私が通う学校のPTAの会長を務めていました。でも、私は学校で、うらやみから、仲間外れにされ、よくいじめられました。
いま、多様性の時代といわれますが、私は子どもの頃から、髪型や服装は自由であるべきだと考えていました。
当時の学童の髪型がほとんど坊主刈りでも、私だけ普通の髪型をしていました。このような発想も、いじめられる要因でした。
中学生の頃、東京でオリンピックが開かれることが決まりました。ニュースは連日、建築ラッシュや、国際化が加速すると報道していました。
しかし、加古川は報道とちがい、まるで別の国のように静かで、旧態然としたままでした。
その頃、海外の仕事に興味を持ったのは、オリンピックで海外に憧れたわけではありません。「日本から逃げ出したい」という気持ちの方が強かったからです。
やがて、成人してから、海外の商品を輸入する仕事を生業にして、半世紀以上続けてきました。
その発端は、いじめられっ子だったからです。私はいじめられ、悔しかったけれど、仲間外れにされないために、自分の考えを曲げようとはしませんでした。
無意識のうちに集団心理に流され、長い物に巻かれることに、不安を感じるようになったからです。
おかげで、自分の価値観でものごとを見極め、行動する習慣が身につきました。
(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)
Supervised by ODEX JAPAN Photo & Text by George Oda