オーデックス・ジャパンの森夫妻は2024年9月29日(日)、東京広尾のイタリアン・レストラン「ラ・ビスボッチャ」で開かれたイベント「コスミック・ジャンクション第3回」に参加しました。
これは、同店が予防医療クリニック「アフロード・クリニック」とコラボして、アートとレストランの掛け合わせから生まれるビックバンを楽しむイベントです。
イベントの模様をお伝えします。
“イベントレポート:コスミック・ジャンクション第3回” の続きを読む顔のみえるワイン
オーデックス・ジャパンの森夫妻は2024年9月29日(日)、東京広尾のイタリアン・レストラン「ラ・ビスボッチャ」で開かれたイベント「コスミック・ジャンクション第3回」に参加しました。
これは、同店が予防医療クリニック「アフロード・クリニック」とコラボして、アートとレストランの掛け合わせから生まれるビックバンを楽しむイベントです。
イベントの模様をお伝えします。
“イベントレポート:コスミック・ジャンクション第3回” の続きを読むオーデックス・ジャパン森夫妻は、残暑が厳しく、大リーグ大谷翔平選手の47号本塁打47盗塁達成が日本で報道された2024年9月12日(木)、雑誌『イタリア好き』主催のイタリア郷土料理を巡る食事会「カンパーニャ料理とパネットーネ」に参加しました。
これは同誌が8月に発行した58号で「パネットーネの沼」が特集された機会に、パネットーネにこだわり、30年間つくり続けている鈴木与平シェフの麻布十番のイタリアン・レストラン「ピアット スズキ」にて、名物のパネットーネと、晩夏向けに組まれた南イタリア・カンパーニャ州の郷土料理をイメージしたコース料理と、ワインを楽しむ食事会です。イベントの模様をお伝えします。
“イベントレポート:イタリア郷土料理を巡る食事会「カンパーニャ料理とパネットーネ」” の続きを読む2024年9月
ニーノ(株式会社 オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)
1966年 エピソード1 休学とビートルズ
日本ではじめて、南海トラフ地震臨時情報が発表された8月のはじめ、すぐに夫婦でメキシコに旅立ちました。
地震から避難したのではなく、以前から計画していた夏休みの旅行でした。
メキシコのオアハカ州に住む、日本人イラストレーター、フカザワ・テツヤさんを訪ねるためです。
フカザワ・テツヤさんとの出あいは、今年の春でした。
家の近所を散歩していると、北品川の画廊「gallery 201」の前で、フカザワ・テツヤさんの個展を告知する看板の絵に目がとまりました。
フカザワ・テツヤさんのことは知らなかったけれど、絵に惹かれ、なかに入り、絵を買わせていただきました。
ちょうど、帰国していたフカザワ・テツヤさんが在廊して、お話すると、メキシコのオアハカ州に住んでいることを知りました。オアハカは私も訪ねたことがあり、好きな街です。お互いビートルズが好きなこともわかりました。
意気投合して、夏休みに夫婦でオアハカを訪ねることや、冬にオーデックス・ジャパンの施設で個展を開くことが、すぐに決まりました。
夏休みになり、オアハカに行き、フカザワ・テツヤさん夫婦と食事をしながら、絵のことや、ビートルズのことを考えていると、ふと、1966年のことを思い出しました。
1966年は、ビートルズが来日した年です。武道館で公演を行い、その年を代表するニュースとして、昭和史に刻まれました。
外国人タレントの来日公演だけなら、それほど大きなニュースにはなりません。
実は、その公演をめぐり、警視庁の発表によると、日本全国で6520名もの若者が補導されたからです。
ビートルズは前年、娯楽に貢献したことで、英国王室から勲章を受賞し、すでに世界的な人気がありました。
日本公演も人気で、チケットは葉書の応募による抽選になりました。しかし、当選する確率はわずか4%でした。
チケットが入手できない大勢の若者たちは、あきらめきれず、武道館のまわりにいれば、ビートルズの姿が一目見られると思い、家出して武道館を目指し、その途中で次々と補導されたのです。
こうした状況を見て、右翼団体は、ビートルズは、日本の青少年を不良化するグループとして、街頭で公演の反対運動を起こしました。
警視庁は混乱を避けるために、武道館やホテルのまわりを2000人もの警官で厳重に警備し、戒厳令下のようになりました。
過剰な警備は、今後起こると想定された、若者の大規模な騒乱を鎮圧するための予行演習という噂も流れました。
ビートルズの滞在は6月29日から7月3日までの5日間。ホテルからの外出は、武道館公演の往復のみ。私用外出は禁止になり、関係者との歓迎会もすべてキャンセルになりました。
なぜ、このような狂騒に発展したのでしょうか。
当時の日本経済は、高度成長を成し遂げながら、庶民の暮らしは、決して豊かではありませんでした。安保問題やベトナム戦争など、政治不安もあり、デモやストライキなどの社会運動が頻繁に起きていました。
若者はビートルズに、音楽だけでなく、暗い世相を払拭する明るさを見出し、すがるような思いで殺到したのでしょう。
私も同じ気持ちでした。当時の日本人の人生は暗く、抑圧を感じていました。歌謡曲も暗い歌が多かった。
そんな世の中に反発する、ビートルズというサブカルチャーに、大いに共感しました。
でも、武道館に行きませんでした。なぜなら、私は6月6日から、ヨーロッパへ旅立ち、日本にいなかったからです。
東京外国語大学に在学中、3年生の過程が終わると、海外の見聞を広めるために、1966年4月、4年生の春から1年間休学していました。
ビートルズがいた東京に、自分がいなかった無念と、暗い日本から抜け出した喜びが交じり、複雑な気持ちでした。行動の背景に、世の中の動きが影響することを感じました。
いまは、自分のリラックス度も、行動に影響すると感じています。心がおだやかだと、美しいものが目につき、料理やワインも美味しく感じます。
その一方で、落ち着かず、イライラしていると、何をやってもうまくいかない。
気に入った絵との出合いや、新しい人と交流がはじまるときは、たいてい、心がおだやかなときです。
(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)
Supervised by ODEX JAPAN Photo & Text by George Oda
残暑がきびしく、パリ・パラリンピックと次期総裁選のニュースが連日放送される9月7日(土)、恒例の「フードトラック・ハガリ」ランチ会を開催しました。イベントの模様をお伝えします。
“イベントレポート「フードトラック・ハガリ」ランチ会2024年9月7日(土)” の続きを読む2024年9月
ニーノ(株式会社 オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)
1965年、はじめての海外旅行
私は1965年、東京外国語大学3年生の夏休み、はじめて海外旅行に行きました。行き先は東南アジア諸国で、10日間ほどでした。
しかし、そのころのアジア情勢は、緊迫していました。
同年2月7日、アメリカ軍は、北ベトナムへの爆撃を開始。同年3月8日、アメリカの海兵隊は支援していた南ベトナムのダナンに上陸しました。
ベトナムの統一をめぐる、北ベトナムと南ベトナムの戦争は、東西冷戦を背景に、北を支援するソ連と中国、南を支援するアメリカの代理戦争に発展。この年からアメリカ軍が現地に本格的な戦力を投入し、戦火は拡大していました。
連日報道される、ベトナム戦争の生々しい写真や映像は、世界の人々に衝撃を与えていました。
そんなある日、私は雑誌『朝日ジャーナル』のなかに、パナ通信社が募集する東南アジアツアーの広告に目がとまりました。
ベトナムの緊迫よりも、このツアーに行きたい思いが強く、すぐ申し込みました。
なぜ、行きたかったというと、前年の1964年4月1日から、海外旅行が自由化になったからです。
それまで、海外への渡航は、日本の敗戦からの復興途上の事情で、仕事や留学といった理由がなければ許可されませんでした。
しかし、東京オリンピック開催を半年後に控え、規制が緩和され、観光目的の海外旅行が誰でも楽しめるようになったのです。
ただし、ひとり年1回、持ち出し現金は500ドル(18万円)という制約がついていました。それでも、人々はパスポートの申請に殺到しました。
とはいえ、大卒初任給が約2万円だった当時、東京〜パリ間の片道航空運賃は約25万円で、まだまだ庶民には高嶺の花でした。
私は、大学1年生だった1963年、通訳案内士の国家資格を取得し、日本交通公社(現JTB)で外国人観光客の通訳をするアルバイトを続けていました。
その貯金のやりくりで、東南アジアツアーなら、なんとか手がとどく値段で、大学の夏休みのスケジュールも合い、最初の地、ホンコンへ行きました。
次はタイ。ここからツアーはカンボジアに移りましたが、私はツアーとはなれ、友人に会うために、ひとりでインドネシアへ行き、その後マレーシアに行き、シンガポールで再びツアーと合流し、ベトナムへ行き、フィリピンから日本に帰国しました。
そのころ、まだ海外旅行客は珍しく、帰国すると羽田空港で日本テレビの取材を受け、テレビに映りました。さらに、雑誌『平凡パンチ』から取材を受け、現地の模様を語る談話が掲載されました。
なかでも、印象深かったのは、戦時下のベトナムでした。訪問したのは、アメリカが支援していた南ベトナム最大の都市、サイゴン。
当時のサイゴンは、まだ北ベトナム軍の攻撃が及ばす、たまに遠くで爆撃音が聞こえる程度でした。それでも、ホテルは警戒から宿泊禁止で、高校の宿舎に泊まりました。
ツアーを主催したパナ通信社は、所属するカメラマンが撮った写真を、報道機関に売ることを生業にしていました。
ベトナム戦争渦中のサイゴンの飲食店は、西側諸国通信社のカメラマンやジャーナリストが情報交換のために集まり、まるで記者クラブのようでした。
私たちパナ通信社のツアーの席にも、いろんな人たちが出入りしていました。そのなかに、日本人カメラマン、沢田教一さんの姿もありました。
沢田さんは当時、私より8歳年上で29歳。アメリカの通信社UPIに所属していました。ベトナム戦争の報道を強化するため7月17日、東京支局からサイゴン支局に赴任したばかりでした。
沢田さんは、私たちのツアーが帰国した直後の9月6日、取材のために、アメリカ海兵隊に同行し、最前線にヘリコプターで降り立ちました。
すると、いきなり、川の対岸の村に隠れていた、敵の南ベトナム開放民族戦線の兵士が銃撃してきました。
アメリカ兵は、対岸の見えない敵を上空から鎮圧するため、空軍にナパーム弾の投下を要請。非戦闘員の市民に避難するようにアナウンスすると、30名ほどの親子が川を渡って逃げてきました。
沢田さんは、このうち2組の母子が、必死で川を渡る姿に向け、二十数回シャッターを切りました。
このうちの一枚が、「安全への逃避」というタイトルで、UPIのネットワークを通じて全世界に配信されました。
緊迫する母子の表情を見た世界中の人々は「ベトナムで何が起きているの?」と関心を示し、1965年の世界報道写真展で大賞を受賞。翌年の1966年にピュリツァー賞を受賞しました。
アメリカ兵や武器が出てこない、ベトナム市民の姿だけで伝えた戦場写真。常に人間を深く見つめ、写真を撮った、沢田さんのまなざしが、世界に認められたのです。
そのころ海外に飛び出した、日本人の勢いを象徴するようでした。
勢いの話をすれば、今の日本は国内産業が衰退し、韓国や中国のほうが、勢いがあります。しかし、海外旅行が自由化になった当時は、日本人に勢いがありました。
暗い日本への反発から、ものすごくエネルギーがあり、のちに、日本のフレンチレストランや、ファッションデザイナーの草分けになった人たちは、このとき海外に飛び出していました。
沢田さんは、その後、写真の母子全員を難民キャンプで探しあて、再会を果たしました。ピュリツァー賞の賞金の一部を寄付し、一緒に添えた受賞写真の裏に「幸せに サワダ」とサインを入れました。撮影から10ヶ月後のことでした。
戦局がカンボジアに拡大した1970年10月28日、沢田さんは、カンボジアのプノンペン南部に取材に行く途中、銃撃され死亡。享年34歳でした。
こうした、戦場の現実は、アメリカ社会をゆさぶり、変貌させることになります。
膨大な戦費は経済を圧迫し、国内は分裂。既存の体制への抵抗は、さまざまな価値観の崩壊へとつながり、ついにベトナムから撤退を余儀なくされました。
1975年4月30日、サイゴンが陥落し、南ベトナムは崩壊しました。
この後、民族統一を果たしたベトナムと、アメリカが国交を結ぶまでには、20年の歳月が必要になりました。
私は、1965年に参加した東南アジアツアーで、英語が喋れたことから、現地の新聞社やテレビの取材に、ツアーの代表として答えるうちに、いつしかツアーのリーダー的存在になっていました。
また、私は日本人らしく見えなかったのか、どこの国へ行っても、現地の人とすぐなじめました。
私は日本で、師匠もいなくて、友だちも少なく、何をやっても不器用で、グループのリーダーになることはありませんでした。
しかし、海外に行けば、活躍できる場所があることに目覚めたのです。それ以来、海外に行くことが、病みつきになりました。
(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)
Supervised by ODEX JAPAN Photo & Text by George Oda