2024年12月
ニーノ(オーデックス・ジャパン 代表取締役 森俊彦)
小石の思い出
私の師走は、ハワイのホノルルマラソンです。
ここ数年ばかり続けている年中行事で、昨年は夫婦で完走しました。今年も12月8日(日)、夫婦で完走を目指して参加します。
秋はそのトレーニングと観光を兼ね、夫婦で古道を歩くことを楽しみにしています。今年の秋は、山口県の萩往還や福井県の鯖街道、静岡県の旧東海道などを歩いてきました。
歩くだけなら、東京でもできるけれど、古道の魅力は、高層ビルがない、広々とした空です。
1966年、私が東京外国語大学4年生の頃、東京には、まだ高層ビルはありませんでした。
東京タワーは1958年にできたばかりでしたが、高層ビルは1968年、霞ヶ関ビルの開業まで待たなければなりませんでした。
このため、アメリカの高層ビルに憧れていました。その思いがつのり、欧米を見るため、大学4年生の1年間は、休学することにしました。
その背景は、1964年から海外旅行が自由化になったことです。
そんな時勢のなかで、作家の小田実が1961年に発行した海外旅行記『何でも見てやろう』がベストセラーになり、若者に影響を与えていました。
1965年、大学3年生の夏休み、東南アジア諸国を旅すると、次は欧米に行きたいと思いました。
大学では、ストレートで卒業するほうが就職の心象が良い、という噂があったけれども、私は、人と同じ行動しなければならない、という当時の日本人の風潮に疑問を感じ、自由時間が多い学生のうちに海外旅行すべき、という持論を優先しました。
日本交通公社(現JTB)の通訳のアルバイトで稼いだ資金があり、親に借金することなく、自分のお金で気兼ねなく渡航できたため、実行しました。
とはいえ、放浪の旅は残るものが少ないと思い、大筋の目的を定めました。それは、休学が終わる1967年3月末までに、ドイツを中心にするヨーロッパ諸国とアメリカを訪ねることです。
ドイツへのこだわりは、当時のドイツ(旧西ドイツ)は工業が発達して、アメリカに次ぐGNP世界2位の経済大国でした。将来はドイツと交易する仕事に就きたいと思い、大学もドイツ語を専攻していました。
具体的な目的の軸は、ドイツのフライブルグ大学の夏季講座に約2ヶ月、その後、ケルン大学の秋季学期に約半年就学することに決めました。
そのほかの日程は、自由気ままに、何でも見てやろう、という気分で、諸国を訪ねることにしました。
そして、忘れもしない、1966年6月6日、約9ヶ月間の欧米旅行に出発しました。
今回の回想は、その旅程の前半、日本から船でロシア(旧ソビエト連邦)に移動し、そこから北欧に移動し、そこからドイツに入り、フライブルグ大学で夏季講座を就学するまでです。
スタートは横浜港。船で太平洋を北上して、北海道の北端、宗谷海峡を西にぐるりとまわってシベリアに着く。
そこから汽車でハバロフスクへ移動。そこから飛行機で約8時間かけてモスクワへ移動。そこから夜行列車でフィンランドの首都ヘルシンキに移動しました。
ヘルシンキのホテルは、当時の日本円では高額に相当しました。日本人の旅行ビザの現金の持ち出しは500ドル(18万円)の制限があり、クレジットカードはない時代でした。長旅で使う現金を温存するため、公園で野宿することにしました。
6月のヘルシンキの夜は白夜でした。ぼんやりと明るい公園には、私と同じくヨーロッパの中心部を目指す日本人がたくさんいて、無言で座り込んでいました。
いま、東京で中国人をたくさん見るように、当時のヘルシンキの公園には、日本人がたくさんいて「海外で何かをつかみたい!」と思う人たちの勢いを感じました。
公園に日本人が集まる光景は、まるで動物園の猿山のようで、私もその一匹でした。
それから、スウェーデンを経て、デンマークに入りました。首都コペンハーゲンのチボリ公園を歩いていると、日本人観光客から声をかけられました。
「オスカー・ダヴィットセン」というオープンサンドが名物のレストランで、皿洗いのアルバイトを募集している情報でした。
現地の資金稼ぎは耳よりの情報で、不法労働とわかっていても、見つかるまで働こうと思いました。
レストランにとって、当時の日本人とアラブ人は、低賃金でも働く貴重な労働力でした。それでも、日本円に換算すると、当時の日本のアルバイトの日当に相当する額が、1時間で稼げました。
このため、朝4時から夜の12時まで18時間働き、約1ヶ月半続け、ずいぶん稼ぎ、後の行程の役に立ちました。
レストランには、休憩室や、まかない食はありませんでした。厨房のパンやハムを食べてよいことが、唯一の労働環境でした。
それでも、理不尽な労働を感じると、私は英会話ができたことから、日本人とアラブ人労働者の代表として、レストラン側と交渉することがありました。
私は日本では、猿山のリーダーになれないけれど、海外では、語学力のおかげでリーダーになれました。
前年の東南アジア旅行と同じく、日本より海外の方が生き生きしている自分に気がつき、将来は海外で仕事をする思いが強くなりました。
コペンハーゲンでアルバイトをしているときは、ユースホステルに宿泊していました。門限は夜の10時でした。
高級ホテルの24時間体制とちがい、安宿を少ない人数で運営するため、やむを得ません。
私は毎晩12時過ぎに、アルバイトから宿舎に帰ると、玄関は閉まっていました。
そこで、庭で小石を拾い、宿舎の窓に向かって投げます。小石が窓ガラスに「パチン」とあたると、その音で誰かが玄関に来て、中から開錠し、私が入ると、また施錠してくれました。
小石が当たった窓に、どのような人が宿泊しているかわからず、開錠してくれる人は日本人のみならず、外国人の場合もありました。
ユースホステルの宿泊客は、皆同じようなことをしていたため、国籍に関係なく、助け合いました。
このような助け合いの精神は、日本の高層化が進み、暮らしが楽になると、だんだん薄れていったように思います。
やがて、ドイツのフライブルグ大学の夏季講座の時期が近づくと、アルバイトを切り上げ、スイス経由でドイツに入りました。
フライブルグ大学で印象に残っていることは、本格的なワインとの出会いです。
日本の洋酒の国産化は明治の文明開花からで、ウイスキーやビール、ワインなどの生産がはじまりました。しかし、ワインを手がけるメーカーは少なく、種類も少なく、戦後になっても存在感は薄く、ヨーロッパのレベルとは程遠いものでした。
そんな時代に、フライブルグ大学の裏のワイン酒場で出会ったワインは美味しく、種類も豊富でした。大学のイベントでも、ワインの試飲会や産地見学ツアーがあり、生活に根付いた文化を感じました。
そこで、ワインの本を買って調べると、ヨーロッパはワイン発祥のルーツで、歴史は古代からあり、産地の気候風土によって味のバリエーションが豊富で、奥が深くて勉強になり、面白かった。
やがて、ヨーロッパの本格ワインを日本で紹介するビジネスをやりたい、と思うようになりました。
私は、人と同じことをやると、負けることが多かったため、当時日本でほとんど紹介されていないジャンルとしても注目しました。
もうひとつ、フライブルグ大学で印象に残ったことは、イタリアへのバスツアーです。
3週間ほどかけて、北イタリアから南部のアマルフィ海岸まで南下し、そこから折り返して戻るルートです。
その途上でミラノやヴェネチア、フィレンツェ、ペルージャ、ローマ、ナポリなど、代表的な都市に立ち寄りました。各地の宿泊は安価なホテル、食事はピザなどの軽食でした。
イタリアは、いまでこそ、大好きな国で、ビジネスのパイプも太く、毎年のように訪ねています。しかし、はじめて訪ねた1966年、大学生の頃は、それほど感動しませんでした。
というのも、戦後の焦土から復興途上の時代に、一番憧れたのは、戦勝国アメリカの高層ビルや、アメリカのテレビ番組『奥さまは魔女』に見る家電製品に象徴される、豊かな物質文明でした。
そんな時代に、イタリアの古都と古道、ローテクによるスローライフの暮らしに興味を感じなかったことは、無理もありませんでした。
それから、約60年の歳月の間に、日本の高層化が進むにつれて、自分の趣味嗜好が、古道を好んで歩くように、ハイテクからローテクへ反転するとは、思いもしませんでした。
ハイテクの進化は、暮らしを便利にしてくれます。しかし、心を豊かにしてくれるものは、いまの私にとっては、自然に近い、人間味のある、ローテクの暮らしだと感じています。
そのような素朴な文化は、イタリアには、たくさん残っています。日本も古道のまわりに残っています。
来年も、師走に備え、夫婦で古道を歩くことを、楽しみにしています。
(監修:オーデックス・ジャパン 写真・文:ライター 織田城司)
Supervised by ODEX JAPAN Photo & Text by George Oda